生きていると生きているということを忘れてしまうから、一秒を唱える。

生きるということは、「走る」ということに似ている。
少し前を見据えながら、流れる景色を見たり、同じように走っている人を見たりする。ときに、少し戻ってみたり、立ち止まったり。歩いて、少しペースを落としてみたり。
「走る」ということは、ただ足を速く回転させ、ペースを上げることではない。
実際に走ってみると、分かる通り、準備体操で体をほぐしたり、いきなりトップスピードにのることもあれば、徐々に上げていくような走り方もある。そのような全般を含めて、ここでは生きることを「走る」ことと呼んでみたい。

私は常々、自分は走っているんだという認識を忘れてしまう。
走り始めて、いろんな景色や人を見るようになると、ついついそっちばかりに意識が舞い上がってしまう。その景色や別の人間の走り方を見ることに夢中になって、同時に走っている自分を忘れてしまう。
「自分が走る先には、こんな景色が待っているのかもしれない。」
「隣を走る人は、ああいう走り方をしているけど、自分はどうなんだろう。」
「自分が向かいたい場所に到達するためにはどうしたらいいのだろうか。」
景色からスライドされた未来の据え、それに触発された自分の声。同じような境遇の人間がどのような走り方をしているのか。走っていると、脳内にたくさんの声が生成されていく。
紛れもない、自分が作り出した声だ。
だからこそ、精一杯応えたいと思う。
考えたいと思う。
そのためだろうか。いろんな方向にちりばめられていく、分散していく自分の声に夢中で、今という一点、今この時を生きていることをよく忘れてしまう。今走っているこの瞬間に無自覚になる。
それは、脳内に広がっている馳せや声によって、脳内の声に応えたい自分と今を生きる自分とが乖離してしまっているような感じなのかもしれない。
自分が作り出した声に生きる意識が沿り出してしまい、今生きていることがぼやけだす。
体内と体外の活動にズレが生じる。
今生きているこの瞬間を離れ、生きている。
今に意識が飛ばないけれど、限りない今を生きている。
その意味で今を走っている、ということを忘れてしまう。
いろんな意味や声が脳内で生成されているその最中でも、今という一点しか人間は生きられない、ということを忘れる。

走りたい道はたくさんあるが、それは今という道から始めるしかない。
どんな道をたくさん想定しようが、それは今という瞬間に走っている道から立ち上げるしかないことに意識が薄くなる。
光り輝いている道であっても、花がいくらたくさん咲いている道であっても。
その道を急に走り出すことはできない。
今を生きている自分を飛び越えて、いきなり目指したい道にダイブすることはできない。
今という瞬間、今生きているこの身体から始めて、その先に目指したい道を溶接していくしかない。くっつけていくしかない。
だけど、そこには悩みが生じる。
ある一つの道を走りながら、また別の道を掲示してくる声がうるさくてたまらない。
一本の道に決定して、生き始めた自分に別の道という可能性があったことをかけられ、それを捨てきれていない自分がいるのかもしれない。
だから、その声に応えようとしていたら、今という瞬間を置いてけぼりにしている。今の自分を置いたまま、ズレたことをしている。
不一致している。
今の自分を引き連れ、ともに走っているのではない。
こうするべきでは?という外の声に応えようと、今を走っている自分にそぐわないような走り方をしてしまっている時がある。体を壊すような走り方。今という道しか走れないのに、その道に別の道を重ねているような気もする。
その時、私は今を生きているということを忘れている。
走っているということに無自覚に、生きている。
息切れしているということに、気づかずに走り続けてしまう。
内側の声ではなく、外側の声ばかりに応えようとしている。
だから、自分が自分にそぐわないでいる。
体の状態と走りたいペースが不一致している。
今という瞬間しか走れない私が、私を離れ、先の行き先や囲む人間、周りを見渡し過ぎているせいで今という私を置いてけぼりにして、走っているように感じられる。今という瞬間を見逃しているような感じがする。

だから、一秒を確認する。
走っている自分に自分が居直るために、何もしない一秒を作る。
スマホからも、本からも、YouTubeからも離れて、全てから離れる。
なんにもない、フラットな一秒を数える。
そうすると、すごく落ち着くのだ。
走り続けていると、一秒を生きている感覚が欠如する。まとまった時間を生きるようになる。時間を長い目で捉え、少し先の未来をあたかも「今」かのように生きているような気がする。
限りない一秒を通過していく自分と自分が思い描いている自分とがとにかく不一致している。
走り続けていると、段々と黒い影をした自分が先走ってしまっている。
影と身体が離れる。
不整合。不一致。齟齬。相違。
だから、今に不和を抱くのかもしれない。
だから、今のこの瞬間。まさに、その瞬間に一秒を唱える。ゆっくりと数え上げる。自分を収めるために、自分を自分とで一致させるために、なんにもしない一秒を確認する。落ち着いてみる。深呼吸する。
そうすると、目の前が少しクリアになる。
走り出しやすくなる。

頭の中で砂嵐が巻かれ、それが収まらずに、今という瞬間を見逃しているような。
今という時間が、不透明な未来に覆い隠されてしまうような瞬間。
ナチュラルに生きるのではなく、喧騒の中に生きているような。
何を始めるにしても、別の声が響いてくるような。
なにかと、やりきれなさを覚えてしまうような。
刻まれる一秒ではなく、まとまっていない、ぼたっとした一時間が流れるような。
体のノリが効かずに、どうも不自由で窮屈さを覚えるような。
動きたいのに、動かないような。
体と心が離れてしまっているような。

太陽が沈み、閉ざされたカーテンの内で生きている時、どうしても意識は内面に向かいだす。
自分の内側が考える源と化している。
そこから、出発している。
内面に長い時間飛び込んでいる。
生き継ぐ間もなく、連なりながら。
それ自体に、どうこういうことはない。
ただ、その時俺は走っているという認識が飛んでしまっている。
もぐりすぎてしまう。
だんだんと息苦しくなってくる。
だから、その瞬間。
その今に、俺は一秒を唱える。
忘れていることに自覚的になる。
自覚しようと思う。
自分で自分を居直るために、たった今の一秒を、向かっては過ぎ去る一秒に生を確認したいんだ。

それは、自身が自らの生への身体性を取り戻すために、目の前の、まさに今通過している一秒に自分を実感しているのだ。

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