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20. 肌寒きミナミの水面灯り映え

大阪の宗右衛門町界隈は、今でも浪花らしさが残る場所である。派手目なネオンの灯りが道頓堀川に映ってキラキラと揺れる。法善寺横丁の石畳も水に濡れてキラキラと映える。夜は少し寒くなってきた。これからフグの美味しい季節である。

20.肌寒きミナミの水面灯り映え
 「宗右衛門町ブルース」という歌がある。大阪のある会社で不動産開発の仕事していた時、キタ(梅田)へ飲みに行ったあとでも、最後にみんなで歌うのはミナミ(難波)を歌った「宗右衛門町ブルース」だった。正式には「そうえもんちょう」と読むのだが、「そえもんちょう」とみんな呼んでいた。歌の最後にある、「さよならさよなら また来る日まで 涙を拭いて さようなら」のフレーズが宴席の締めの歌として合っていたのだろう。

 山口屋宗右衛門という人の名前から町名がつけられたという。道頓堀の掘削に当たったのが、安井道頓とその従兄弟の道ト(どうぼく)というのは有名な話であるが、山口屋宗右衛門はその現場監督のような立場だったらしい。1615年(元和元年)に道頓堀ができたあと1626年(寛永3年)には南岸に芝居小屋が移転し、歌舞伎や浄瑠璃、見世物小屋が並び中座、角座、弁天座、朝日座、浪花座(竹本座)の5座が並んで芝居町と呼ばれ、庶民の遊興地となっていった。道頓堀川から船で、役者が芝居小屋に入る船乗りこみは、今でも松竹座7月大歌舞伎での船乗りこみに名残を残し、大阪の夏の風物詩となっている。一方、道頓堀の北岸は宗右衛門町となって二十七軒の茶屋ができ、芝居や浄瑠璃を見たあとで食事をしたりお酒を楽しんだりするお茶屋街として賑わっていったのである。当時の宗右衛門町には、「富田屋」「伊丹幸」「大和屋」などの格式高いお茶屋が並び、船場、島之内の旦那が遊ぶ高級な街として繁盛をしていた。道頓堀川一帯は大阪の町人文化が大きく華開いた地域なのである。道頓堀といえば、まず上司小剣の「鱧の皮」を見なければならない。1914年(大正3年)の作であるから、明治の終わりから大正の初めごろの道頓堀である。

 「河岸(かし)に沿うた裏家根に點けてある、「さぬきや」の文字の現れた廣告電燈の色の變る度に、お文の背中は、赤や、靑や、紫や、硝子障子に映るさまざまの光に彩られた。」
「・・・對かう河岸は宗右衛門町で、何をする家か、灯りがゆらゆらと動いて、それが螢を踏み蹂躙(にじ)つた時のやうに、キラキラと河水に映った。」

 と、広告電燈や灯りの燈る街の風景を書く。「さぬきや」は角座の筋向こうの鰻屋「いずもや」のことで、道頓堀川に面して対岸の宗右衛門町の灯りがよく見える場所にあった。

 「夜半(よなか)を餘程過ぎてゐた。」宗右衛門町の様子は、「富田屋にも、伊丹幸にも、大和屋にも、眠ったやうな灯が點いて、陽氣な町も濕つていた。たまに出逢うのは、送られて行く化粧の女で、それも狐か何かの如くに思はれた。」そして「・・・お文は、道頓堀でまだ起きていた蒲鉾屋に寄って、鱧(はも)の皮を一圓買ひ、眠そうにしてゐる丁稚に小包郵便の荷造りをさして、それを提げると、急ぎ足に家へ歸つた。」

 と書く。この蒲鉾屋「さの半」も今はない。大阪弁のセリフと、あかんたれの夫を口では柔らかく貶しながらも思いを続けるしっかり者の妻、脇役人物の物言いや、道頓堀と宗右衛門町の情景、小説全体から大阪の空気が伝わる名作である。最後に夫が好きな「鱧(はも)の皮の小包を一寸撫でて見て、それから自分も寢支度にかゝった。」がしみじみと心に触れる。

 お文の夫、福造は訳あって東京に居るのだが、「鱧(はも)の皮の二杯酢」が好物なのである。金の無心と合わせて、東京で手に入らない鱧(はも)の皮を「御送り下されたく候」との手紙がお文に届く。お文は夜遅く「をッさん(叔父の源太郎)」をダシに使って小料理屋へ誘い、をッさんを返したあとに蒲鉾屋に鱧の皮を買いに行くのだった。蒲鉾屋では鱧の身を上等な蒲鉾にしたあと、残った鱧の皮を売っている。鱧の皮を細かく切ったものと胡瓜を二杯酢で和えたものは素早くできて、香ばしさと優しい歯応えのある肴として絶品である。上司は「鱧の皮、細う切って、二杯酢にして一晩ぐらゐ漬けとくと、溫飯に載せて一寸いけるさかいな。」とをッさんに、鱧の皮がご飯にも合うことを語らせる。鱧の身ではなく、鱧の皮が好物だという福造の言葉に、飾らない普段着の大阪らしい匂いがある。

 1920年(大正9年)、宇野浩二は「橋の上」で道頓堀にかかる橋の氷店、夕涼み、電気広告、幼馴染の芸者との幼い逢瀬について触れている。明治の終わりから大正の初め、宇野が宗右衛門町に住んでいた頃の話である。1940年(昭和15年)、大正時代の大阪を舞台にした織田作之助の「夫婦善哉」では、法善寺境内で二人して善哉を食べるシーンとセリフが印象的である。大阪ゆかりの作家から見て、道頓堀界隈は滲み出る大阪を書くのに丁度いい場所だった。今では五座も格式高いお茶屋も無くなったものの、繁華な雰囲気は道頓堀界隈に引き継がれているし、法善寺横丁も火災を乗り越えて健在である。

 不動産開発の仕事をしている者にとって、地価公示は気になるニュースだった。地価公示は1970年から始まったのだが、大阪の地価で一番高い場所は長い間、梅田だった。しかし、2018年に宗右衛門町が梅田を抜いたのである。インバウンド目当ての商業施設・ホテルの需要が高まった結果なのだが、新型コロナの影響からインバウンド消費が急激に落ち込み、2021年には梅田にその座を戻した。なんとか危機を乗り越え、アフターコロナでは国内の客にも目を向けようとしている。国外の客も国内の客も、大事にしておかないといけない。国内の客と国外の客、どちらが鱧の身か皮かは知らないが、「身」も「皮」も美味しい。「身」を使った後の「皮」も捨てずに食べるのが大阪の「勿体無い」の精神である。

●上司小剣「鱧の皮 他五篇」岩波書店 1952年(初版は1914年)・・・「鱧の皮」は女性心理を大阪弁で見事に表した名作である。「鱧(はも)の皮の小包を一寸撫でて見て、」もそうだが、夫からの手紙を待ちこがれていた様子など、言葉を使わずに女性の仕草で気持ちを表すところがなんとも秀逸である。(引用文は一部新仮名遣いで表示している。)
●宇野浩二「橋の上」・・・有栖川有栖「大阪ラビリンス」新潮社 2014年に掲載。
●織田作之助「夫婦善哉」・・・ちくま日本文学全集『織田作之助』筑摩書房 1993年に掲載。

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