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31. 鯉のぼり風の吹くまま成り行きて

 見方を変えれば、成り行きは楽である。 短い人生、それほど深刻に考えても私のような人間の考えは案外、休むに似たりのレベルかもしれない。成り行きの中で、何を感じて何を会得することができるのかが大切なのだろう。まだまだ、成り行きが続きそうである。

31.鯉のぼり風の吹くまま成り行きて

 朝起きて、いつものトマトジュースを飲みながら、自分の身の回りの出来事は「成り行き」だったなと思い、結果的にはそれで良かったのではないかと考えた。学校時代は父親の転勤にくっついて、いろいろ移り住んだのだが、父にとっても次の赴任地は予想が付かなかっただろうから家族全員が成り行きだった。結果的には、いろいろな街に住めて良かったし、いろいろな学校で多くの友達にめぐりあって楽しかったのである。大学にしても、1970年の大阪万博を見て建築学科を受験したのだから、まあ成り行きといえば成り行きである。「自分探し」というような高尚な時期はなかったわけだが、色々な環境に馴染んでいくことは上手くなったのではないかと思う。そんな思いに浸りながら、74人の著名人が書いたエッセイ集『成り行きにまかせて』という本を引っ張り出して津島佑子のエッセイを読んだ。

  「いわば、人生の成り行きのようなもの。道を歩いていたら、きっかけが向こうからやってきた。実際、人生においても全ては偶然の重なりで、それがいつの間にか、必然のような顔をしはじめて、私を縛っていく。私を思いがけない道に導いていく。」

 偶然が必然になっていく。私の場合には、それに面倒臭いという要因も若干加わっている。それなりに考えているつもりになって8割位は真剣になるが、それ以上はなかなかはっきりと判断する材料がない。最後は、面倒臭くなって「ままよ」と決めるのである。

 最近、タクシーに乗って行き先を告げるのが面倒臭い。しかし、行き先を告げないとタクシーは動かないので、仕方がないから行き先を告げる。すると、今度は「ご指定のコースはありますか。」と聞いてくる。私にとってコースなどはどうでもいいのだが、客によっては文句を言う人がいるので、会社から確認するように言われているのだという。「おまかせのコースで。」と料理屋のカウンターのような言葉を告げる。なんとも面倒臭い。我が故郷岡山出身の作家に内田百閒という人がいる。この人はもっと色々面倒臭いらしい。しかし、単純に成り行きには従わない。譲らないところは譲らないのである。むしろ面倒臭い人というべきなのかも知れないので、付き合う人は大変だったと思う。しかし、百間先生の面倒臭いには何か信念のようなものが感じられる。だから書いたものを読むと、面倒臭さの中に確固たる芯が窺える。面倒臭さ初段レベルの私にとっては、面倒臭さ名人の百間先生の言いようは、自らの人生を真っ当に歩くためには随分参考になる。『第一阿房列車』の「区間阿房列車」、静岡駅前の話では、

 「蕎麦屋が何軒もある。蕎麦が食いたい。しかし面倒だから、よす。山系がレモン・ジュウスが飲みたいと云った。それはそうかも知れないが、飲みに入るのが面倒である。よそうじゃないかと云うと、そうですねと云うので、それも止めた。」

 となり、「鹿児島阿房列車」では、

 「さて、それではお午にしようかな、と女中相手に相談を始めた。何を召上がります。何と云ったところで、何しろ食べる手続が面倒臭い。茶碗を持って、お代りをして。その順序を省略する為に、お結びにしよう。」

 と、面倒臭ささが徹底している。阿房列車シリーズを書いた内田百閒の列車好きは筋金入りなのだが、列車はタクシーのように行き先を告げなくていいので気が楽である。線路なりに走って、行きたいところに着いたら降りたらいいのである。ただ乗る前には行き先を言って切符を買わなければならない。それでも、ややこしい駅でなければ、ご指定のコースを聞かれることはない。こんなことを考えていたら、桂枝雀の落語『住吉駕籠』の枕を思い出した。

 「電車は確かに速うてええようですけど、不細工なやつですよ。あれ、線路のないところへは決してよう行きませんからね。『うちの家へきてくれる』言うても、知らん顔して走ってます、どんならん。そのぶんその自動車というのは、どんな所へもでも行きますからね。自動車が威張ったそうで、電車それまで存分に威張っていたもんですから誠に面目ない、穴があったら入りたい、ちゅうて地下鉄がでけたんやそうで。」

 電車は線路のあるところしか行けないのだが、自動車は道さえあればどこへでもいける。そして、地下鉄の出生の秘密はそこに隠されていた。東京や大阪の地下鉄を運営する会社の愛称は、それぞれ東京メトロ、大阪メトロとなっている。東京地下鉄や大阪地下鉄でいいと思うのだが、フランスに倣ったのである。ロンドンのチューブや、ニューヨークのサブウェイもいいじゃないかと思う。国によって独自の呼称があるのはちっとも不思議ではないし、「地下鉄」で突っ張っても良かった。どうも日本と言う国は名前に関してこだわりがなさすぎる。「穴があったら入りたい、ちゅうてメトロがでけたんやそうで。」では、素直に笑えない。10年、20年経って地下鉄という言葉が廃れ、落語の枕の意味がわからなくなってしまうのは残念である。

●日本文藝家協会編『成り行きにまかせて』光村図書 2005年・・・毎年日本文藝協会が編集をしているエッセイ集で、2005年は津島裕子のエッセイのタイトルが、そのまま書籍タイトルになっている。
●内田百閒『第一阿房列車』新潮社 2021年(初版は1952年)・・・『第二阿房列車』『第三阿房列車』の3部作である。いずれも傑作である。百間先生の生き方は凡人には真似できない。羨ましい。
●桂枝雀『住吉駕籠』(昭和58年10月6日収録) 枝雀落語大全二十四 企画・制作・販売 東芝EMI

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