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4. 冬光る聖堂の床の寄木張り

神戸の栄光教会は、ゴシック様式と言われているが「静かなゴシック」である。
それでも、関西だけでなく日本の各地でのポジティブな活動が印象的である。

4  冬光る聖堂の床の寄木張り

 1922年(大正11年)に建てられた栄光教会の設計者は曾禰中条建築事務所である。東京の明治屋京橋ビルや慶應義塾図書館などを設計し、今でもデザイン的価値のある多くの建物が残っている。言い換えれば世の中に大事にされているのである。栄光教会はゴシック建築様式を踏襲した建物と言われている。ただ、尖塔はあるのだがヨーロッパにあるような大規模な高い尖塔やフライングバットレス、リブ・ヴォールト、大きなステンドグラスといったいわゆるゴシック的要素はあまりない。端正な外観をもつ建物である。それでも県庁などのオフィスに囲まれたこの地域では異彩を放っている。
 プロテスタント教会メソジスト派のアメリカ人W.R.ランバス師が、父親であるJ.R.ランバス師・デューク宣教師とともに南メソジスト監督教会から日本に派遣され、1886年(明治19年)に居留地四十七番(大丸神戸店の東側)に「神戸美以教会」を創設したのが栄光教会の始まりである。「美以」はメソジスト派の中国清代の英語読みの略称MEの当て字である。ランバスは、キリスト教に基づく学校を開設することを提案し、神戸に男子校を作る計画を立てる。1889年(明治22年)当時の神戸市郊外の原田村(現在の王子公園)に約一万坪の土地を購入して、木造校舎を建てたのが「関西学院」の始まりである。19名の生徒でのスタートだった。その後、原田村の土地を売却し、1929年(昭和4年)には西宮上ヶ原の土地に移転して、今では上ヶ原といえば関西学院ということになっている。関西学院が関西文化を幅広く支えているのは言うまでもないのだが、美以教会が築いた青少年教育の場がその元になっているのである。ランバスが神戸に作ったのは関西学院だけではない。美以教会の設立と同時に、家族と共に教会内で夜間英語学校「読書館」を開設し、読書館は翌年にはその設立のための寄付をしたパルモア師の名前をとって「パルモア学院」と改称された。そして1940年(昭和15年)には「啓明女学院」と改称され、今では男女共学の「啓明学院」として中高一貫教育を行なっている。

 関西でのランバスたちの活動を知った広島出身のメソジスト派伝道者から普及活動の要請を受けたJ.R.ランバス師は、この巡り合わせを「神様からの呼びかけ」と考え、広島での普及活動に力を注ぐようになった。そして「広島美似教会」を作り、女子校の設立を目指すのであった。『広島女学院を創立した人たち』には、
 「この年(1885年)の終わりまでにわが国に設立されていたキリスト教系の学校が少なくとも44校もあったことを思うと、(メソジスト派は)非常に遅いスタートと言わざるを得ません。」
 と書かれているが、同書脚注によれば44校は、東京・横浜29校、京阪神9校、九州4校、北海道1校、北陸1校となっているので、キリスト教系の学校がなかった中国地方の中心都市・広島には他派に先駆けて学校の設立を、と考えたのも不思議ではない。まず聖書研究と英語教育のため、1886年(明治19年)に「広島女学会」を作り、翌年には「私立広島英和女学院」を設立、女性宣教師ゲーンスの力を得て苦難を乗り越え、1932年(昭和7年)には「私立広島英和女学院」は「広島女学院」となっていくのである。カトリックに比べて日本に遅れて入ってきたとはいえ、メソジスト派全体で見ると、文化・教育に対する貢献はやはり大きく、教育機関の設立では関西学院・啓明学院・広島女学院だけでなく青山学院・福岡女学院・弘前学院・東洋英和女学院など数が多い。教育がキリスト教の普及活動につながるという観点を超えて、日本の知的レベルの向上に大きく貢献したのである。

 ゴシックの大聖堂の成り立ちは、フランスの農村に元々あった森への信仰が基底にある。社会変革とともに起きた都市への人口移動は、母なる自然崇拝と結びついた大聖堂を都市のなかに求めることに繋がった。酒井健は『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』で、内部空間の柱形状と森の樹木の枝の広がりの類似性に目を向けて、
 「石柱頂の起拱ききょう点から天井にかけて放射状に伸びる交差リブや横断しているアーチの曲線は、それら高木のしなやかな枝の流れを表している。(中略)堂内の薄暗く、不気味で、神秘的な気配は、昼なお暗い平地林の雰囲気を伝えている。ステンドグラスから射し込んで柱や敷石に七色の映像を落とす光は、森のなかの木漏れ陽にも喩えられようが、それよりもむしろ自然界の生命の異様なきらめきに見えてくる。」
 と、書いている。天に向かう柱列とその柱から分岐して伸びる枝は、あたかも天空を支えているかのように見え、聖堂を訪れた人々はその木々に覆われることで庇護されているという安らぎを得るのである。

 栄光教会の建築デザインはゴシック建築と言われるのだが、森をイメージするようないわゆるゴシックを特徴づける建築的華やかさは見られない。そこにはプロテスタントにおけるゴシック建築という抑制された考え方があるのかもしれない。神戸美以教会は1942年(昭和17年)に栄光教会と名前を変える。建築的華やかさは見られないが、神戸美以教会から栄光教会へと続く約135年間の社会的貢献は、十分に華やかなのである。

●栄光教会HP http://kobe-eiko.com
●『広島女学院を創立した人たち 創立協力者ランバス宣教師父子 創立者砂本健吉』広島女学院 2008年・・・校母ゲーンスの来任120年を記念して作られた書籍である。
●酒井健『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』筑摩書房 2020年・・・イタリア人の批判を浴びながらもゴシックが広がりを見せた社会的背景に触れている。 


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