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人生を変える『音楽』と『推し』

こんにちは、アリシアです。

今年一年の振り返りと言いますか、私に起きた変化というものを残しておこうと思うと思いこの記事を書いています。
「人生最大の体験」なんて言ってしまうと一気に安っぽくなってしまいますが、これほどまでに受けた衝撃と私が抱いている愛情はもう本当に人生一度の物で、これを超える体験は絶対にないと断言できます。
前二つを読んでいただけるとその変化というものが分かりやすいと思いますが、本記事と合わせると40000字に到達してしまいそうな勢いなので読まなくても大丈夫なように本記事は書いてます。(この記事がもう15000字くらいあります)
長くなるうえに嫌いなものに対する言及と気持ち悪い感情が含まれています。自分語りも非常に多いですが、どうか最後まで読んでいただけたら幸いです。




『推し』とは

推しとは一体何でしょうか。

おし【推し】
他の人にすすめること。また俗に、人にすすめたいほど気に入っている人や物。「推しの主演ドラマ」[補説] アイドルグループの中で最も応援しているメンバーを意味する語「推しメン」が流行したことから、多く、アイドルや俳優などについていう。
Weibo辞典より引用

発端こそ知りませんがこのサブカルチャーという界隈においては、「好き」を発信する言葉としては「好き」よりも「推し」が主流化してしまったように思います。昔は俺の嫁とかルイズぅぅうううわぁあああとか言ったりしたものですけども。
…年代がバレるからやめよっかこの話。

「好き」を発信することに関してですが私も好きなゲームやアニメはあります。
作品の伏線や知識量を蓄えて考察したり、絵を描いたり、ゲームでキルレやランクを上げることを目標にしたりと、何かにガチになることも少なくはありません。それでもどこまで行っても上には上がいて”勝てない”というのも真実です。
ですから自分は浅く広くというタイプのオタクでありました。
「この広く浅く」という言葉を私はよく使いますし、自分自身をアマチュアだと分析していますが、絶対に勝てない存在と対峙した時に傷付かない様にするための「諦めの儀式」でもあったのかもしれません。ネトゲに青春注ぎ込んで人生破滅したのに、結局のところ何にも本気になり切れてなんていなかったんですよ私は。
これが私の「好き」です。逃げ道を確保してから自分が危うくなったらいつでも捨てる事が出来る「好き」。
ダブスタを抱えたまま辿り着いたこのバーチャルシンガーという場所も、ダブスタだろと指摘されたらこの趣味を捨てるつもりでいました。

少々脱線しましたね。
「推し」という表現自体は私も知っていましたが自分が使うことはないだろうなとも思っていました。「好き」を発信するのは「好き」でいいわけですから。
ことコンテンツは自分一人で楽しむ性格で、他人に勧めるという直接的な行為をしないのもあって「勧める」という意味でも推しという言葉は使わないままでいました。

私は人に直接何か進められると逆に興味をなくしてしまうめんどくさいオタクです。自分が何かに狂ってる姿を知り合いやフォロワーに見られて、アイツが狂ってるから興味持って見始めよう、という方がオタクとしては嬉しいじゃないですか。
この辺の考え方は世代によってかなり隔たりがあるように思います。今の若い子は…こういう言い方をしてしまうとジジ臭いので申し訳ないんですけども、好きなものを共有する文化が大きく発達しているように思います。
私の若い頃は(要出典)匿名掲示板こそあった物の、まだSNSは発達していなかったというのもこの「人に何かを進めるのが苦手」という感情形成に大きく影響を与えていると思います。

そして2.5次元コンテンツであるアイドルゲーム声優やバーチャル存在と言ったものを触らない自分にはますます「推し」という言葉は遠いものであるわけで。
「推す」という言葉自体「人に勧めたい」という意味を内包した「好き」という言葉です。
特に自分の観測範囲ではVtuberに向けられた言葉であることが多く、そのVtuberが嫌いな自分からしたらそのVのファンが使う言葉や好きの発信の仕方なんて絶対真似したくないな、というのが本音でもありました。

「推しは推せる時に推せ」とか「人生救われてます」とかツイッターで呟いたり、配信で高額のスパチャを投げたりガチ恋したりしてるの完全にアブナイやつですよ。普通のコンテンツと違ってその側の向こうに生身の人間がいるナマモノのコンテンツですから。
ですからそんな奴らを私は馬鹿にしていましたね。

以上、推しという言葉を使わない上推しという推しもいなかった私がなぜ今こうして推しという言葉を用い、全力で推しているのかについて、長くなりますがお話しいたします。

マシンガン推し




「推し」と出会う運命


過去の記事で複数回触れていますが、私は今年の5月に人生をを変える運命的な出会いを経験しました。

ブラックサージナイト主題歌「深淵」 

ブラックサージナイトは前々から期待していたタイトルで、リリースを心待ちにしていたゲームでもあります。
中国ゲーム市場は白夜極光に「Reol」、アズールレーンに「EGOIST」を起用していたこともありブラサジもその波に乗ったわけですね。実際主題歌のあるなしは世界やゲームに対する没入感はかなり変わってくると思うので私としては嬉しい事でした。
そしてヰ世界情緒と花譜という存在を初めて観測することとなりました。
以下私が初めて抱いた印象です

「はぁ~~~~~~好きなゲームにVが起用されちまった」

クッソ失礼ですねこいつ。
というのも、何度も言っていますがそれまでの私は(今もですが)Vtuberが嫌いだったわけです。
そして好きなゲームにVがコラボしてもうやらなくなることが多々ありました。アズールレーン然りアッシュアームズ然り。
アッシュアームズなんかは数万突っこんで理論編成まで組んで高難易度を最前線で走るくらいには好きだったんですけど。

この時点では私もこのゲームを辞めるか悩んでるくらいショックを受けていました。予告編のショートバージョンを聞いていなかったらゲームをやらず、この神椿のシンガーたちの事も「Vtuber」と一括りにして嫌ったまま過ごしていた可能性すらあります。
ですが私は聴いてしまいました。それは冷やかしだったかもしれないし、もし下手だった即ブラウザバックしてやるって意識があったのもあります。

それでも、私は出会ってしまった。

物語を紡ぐような不可思議な歌声のヰ世界情緒。
今にも泣きだしてしまいそうな多感で切ない声をした花譜。

予告編だけでも確かにいい歌だ、他の曲も聴いてみるかと再生リストを辿りました。
再生リストを開いて最初に気付いたのはゲーム配信が無く生配信の頻度も少なかったことです。
Vtuberという存在は黎明期こそ「バーチャル上で活動する」という動画投稿がメインの存在でしたが、今や生配信と切り抜きによるストリーマースタイルが主流です。話すと長くなるのでここでは言いませんが私はその配信主体で、ニコニコ時代の生主文化の再生産になり下がってしまったV文化が大嫌いでした。

だからこそ、というのもあるかもしれません。バーチャル”シンガー”だし歌でしか活動しないから生放送もそこまでしなくて追いやすいなと、自分が嫌いなバーチャル存在とこの子達は違うなと、自分でもビックリするくらい割り切りと切り替えが出来ました。
この「(私が好きな)この子はあの子達とは違う」、何てのも私が嫌いなVtuberのファンがよく発していた言葉ですね。頻繁に炎上した某箱を取り巻いた状況に対しこれだからVは、と一括りで批判されることも少なくありませんでした。それに対する反論の言葉。その頃の私は同じ穴の狢だろと思っていたことがあります。
そんな嫌いな奴らが使う言葉を私は自分の都合のいいように使って自己弁護しているわけです。本当に情けない話ですね。

そして何気なくクリックして開いた『過去を食らう』と『シリウスの心臓』。

花譜

人生が変わる。セピア色に閉ざされた視界が鮮やかに色づいていく、という表現が実際にありえるんだなと身をもって体験しました。

夢や希望はなんだった? やりたいことはこれだった?
過去が僕らを待っている 貪欲な顔で待っている

14歳の儚げな少女が歌う”大人になることへの恐怖””社会への反抗心”
ペシミズムにもリアリズムにもなり切れず、日々を過ごすだけの私をグサグサと刺していきました。
未来に希望が無いわけではない、死にたいと人生に絶望するほどでもない。全てが中途半端な私に、過去に追いつかれないように、全てを食らって生きようと自分に強いメッセージ性を与えてくれました。

そして、今まで花譜を知らなかったというのも半分間違いです。不可解のライブで行われた映像を投稿したMVや過去を食らうのMV、それらが今まで広告で流れていた。
2020年はVALISと出会って曲を聞いていたし、そのほかにもAdoのデビューやKanariaなどメガヒットのアーティストが多く、歌を聴く目的でYouTubeを使っていたから関連として花譜の広告が出てこないわけが無いんです。
不可解のライブMV、ステージ上に立って歌う桃色の髪をした少女。既視感の塊です。

全て思い出しました。私はこの広告を、花譜の歌を、「Vの広告かよ」とスキップしてしまっていた。

「活動初期から知っていたかった」
「どうして今までこの逸材に気付けなかったんだ」
「もっと早く知っていれば絶対ライブに行ったのに」

花譜を知るきっかけなんていくらでもあったのにそれを全て自分の手で摘み取っていたんです。本当に、自分の事を殺したくなるくらい恨めしい。俺を殺してくれ。
Vtuberが嫌いなのは過去も未来もずっと変わらないけど。
あの時あの場で広告を飛ばさずにいられたらと、後悔してもしきれません。花譜を知らなかったのはめぐり合う運命が今年まで無かったんじゃなくて、全部自分のせいだったんです。

本当にごめんなさい
知るのが遅れてしまったけど、これからは胸を張って貴女を観測させてください。



ヰ世界情緒

お次はお情です。
初めて聞いたとき表現力の高さにぶっ倒れました。お情の曲は物語性が強く聴く童話といった趣の曲が多いです。
シリウスというのは連星系の恒星であり片方が消滅し今は単一の恒星になっています。片方になる際に赤色巨星という赤く光る恒星となりました。
現在ではその赤色は無くなり白色の光を放っているのですが、これは太陽を除けば最も明るい星と言われています。

明かりになったあなたへ 宇宙を飛べるまで待っていて
明かりになったあなたの 心臓は赤く光るかしら

双子の星の片方が消え、残った方が赤く光るようになったというのを踏まえると、生き別れたような、会うことを焦がれるような、とてつもない深い歌です。

・・ ・ー・・ ーーー ・・・ー ・ ー・ーー ーーー ・・ー
・・ ・ー・・ ーーー ・・・ー ・ ー・ーー ーーー ・・ー
・・ ・ー・・ ーーー ・・・ー ・ ー・ーー ーーー ・・ー
・・ ・ー・・ ーーー ・・・ー ・ ー・ーー ーーー ・・ー

何かわかります?モールス信号ですよこれ。
「モールス信号を歌う」というのは狂気に片足を突っ込んでいるとすら思いました。トゥとツーという経った二つの言葉だけなのに、彼女が歌として紡ぎ出すだけでどうしてこんなにも美しくなってしまうんだろう。
「愛してる」という意味を繰り返し繰り返し必死に伝えようとしている、歌唱による表現力がバケモンですよ。



VALIS

VALISが好きなことについては語り尽くしているので出会って1年潜んでいた時のことを話しましょうか。
出会いはYouTubeのおススメだったように思います。広告だったら多分飛ばしていました。
syudou氏のわざと音を外した音作りや独特のリズムが好きなので曲自体にはすぐにハマりました。曲自体には、という含みを持たせている通り、当時は歌とNoteに連載したストーリーだけが好きでVALISに触れていたんです。
バーチャルな彼女達にどう向き合っていけばいいのかそれが分からなくてこんな推し方をして1年も潜んでしまいました。

Vtuberが嫌いな自分がVALISを推しているという事実を周りに見られて「ダブルスタンダードだろ」と言われるのが怖かった。コンテンツは自分一人で楽しめるなんて言う意識を持っておきながら、心の奥底では他人にどう見られるかを気にしていた私は、自分に対してもVALISに対しても義理を通せない『最悪のファン』だった。

ただ潜みながらも明確にメンバーの性格、つまりは人となりを意識するようになったのは超常現象ダンスダンスが投稿されたあたりから。
超常現象に関連したメンバーの設定に振れたことで彼女達の素や普段のツイートを知りたくなって見始めるようになりました。
とはいっても本格的にツイッターフォローするようになったのは21年6月ですけどね。これも花譜とヰ世界情緒のおかげです。


そして花譜とヰ世界情緒が属しているのがインディーズレーベルである神椿スタジオだと知りそこから残りの3人とDUSTCELLとも出会いました。
VALISが深脊界に移住したのもありTHINKERという大本へも。
最終的にはその総合プロヂューサーの方のNoteまでたどり着きます。

私達は花譜との作品創りを通じて、「勝つか負けるかだけじゃない、感情的で不可解なものの中にこそ、誰かにとっての少しばかりの救いと魔法があるのだ」ということを証明したいです。

私達は現実には隣にいなくとも、ずっと隣にいることが出来るはずです。
美しくて不可解なものを信じるために。
クリエイティブの魔法をもう一度確かめるために。
許せない人を許すために。
花譜や仲間達や好きになってくれた人達と共鳴するために。
このライブを実現させる為に集まった素晴らしいスタッフ達とクリエイティブチームが皆様の応援のお蔭もあって、急速に結成されつつあります。言葉だけでは表現しきれない程の“出来事”を皆さんと一緒に創りあげたいです。

花譜運営は、神椿スタジオは、真摯にクリエイティブに取り組んでいます。
バーチャルとリアルの垣根に囚われず、ひたすらにまだ誰も見た事のない「新しい何か」を作ろうとしていました。

私自身VR文化やVtuber文化が生まれ始めたときは先進性に驚きましたし、これを使ったイノベーションに期待を持ったりもしました。
ですがそのバーチャルという蓋を開けてみれば失望してしまうわけです。
ニコニコ時代の生主文化の再生産になってしまったVtuber。
ネトゲの見抜き文化やネット恋愛の再生産になってしまった箱庭型VR。
それとは違う、本当の意味でのバーチャルのイノベーションを、この神椿スタジオは生み出す気概に溢れています。

私は2008年以降の所謂ニコニコのボカロ全盛期というものを生きてきた人間です。
誰もがクリエイティブ精神を持ち、上手い下手に関わらず曲や動画を作って投稿していた時代。肩書やネームバリューに左右されずに新しいことに挑戦するというクリエイティブによって生み出された”可能性”が好きでした。

『竜とそばかすの姫』のようにクラスの端っこにいるような子が、ネットの世界からスーパースターになっていく。アーティスト活動をしたいけど一歩が踏み出せない人は世の中に沢山いると思います。そういう切実な願いを胸に秘めている子達の希望的存在になって欲しいと思っています。


『アバターを持つ事で可能性を拡張させる事が、新時代のアーティストの在り方のひとつになったら嬉しい』

ボカロ全盛期に見た自由なクリエイティブの姿を今こうして神椿スタジオに重ねて見ています。
これもまた”再生産”と言われてしまえば否定はできません。
VtuberとVsingerは違うという事を他人に強いるつもりもありません。
私の姿がダブルスタンダードに映るならそれでもいい。
「バーチャルシンガー」という存在に、バーチャルを目的ではなく手段として用いて創作を行っていくというクリエイティブ精神に、私は強く惹かれました。




初めて見た『推し』の晴れ舞台


今度は別の推しの話です。とっかえひっかえ忙しいなコイツ。

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6/26日、VESPERBELLというバーチャルデュオのバーチャルライブにて、私は初めてライブを見るという体験をしました。
このライブはYouTubeで無料だったこともあり3000人+トレンド入りも果たしていましたね。
リアルのアーティストのライブ現地も行ったことが無い私にはこれが初めてのライブ視聴でした。
もちろんオンラインですので画面の前に座って視聴するという部分においてはアニメを見たりするのと何ら変わりはありません。ですがライブ中感極まって泣いてしまう姿や音源よりも圧倒的に良い歌を聴いたこの体験は私の心を打つものがありました。
更に言うと未発表新曲が突然二曲生えてきたうえグッズやCD販売も告知されましたからね!!??こういうサプライズ発表もライブを構成する面白さなんだなぁと思いました。

続いて7/17。こちらはライブの再放送。メンバーの2人が喋りながら同時視聴するといった内容でこれも初めての体験です。
初めてだらけだな。

ハッシュタグを付けながら実況視聴する、というのも初です。無料ライブの時はまだ小恥ずかしさで出来てませんでした。
この頃からもう自分の中で踏ん切りがついて、好きを発信していけるようになっていたんだと思います。

メンバー2人からいいねももらっちゃいました。これからもVESPERBELLについて行きます。


ライブって…いいな…。



続いてVALIS。

旋律コレクションと感情プレステージを経ての拡張メタモルフォーゼ。
ライブの現地に行くというのはこれが正真正銘初めての体験です。このために10万払いましたから。

それについての詳細はこちらをご覧いただきたく思います。一から話すとめちゃくちゃ長くなってしまう。

このライブはバーチャルという表現の場における伝説です。
バーチャル存在のライブとして前代未聞である演出を行いました。いくつかメディアが取り上げていたのでVALISを知らない人、ライブを見ていない人も噂程度としては知っているのではないでしょうか。

「バーチャルとリアルの行き来」
バーチャル存在の中身である「オリジン」の露出

バーチャル存在がこれまで演者とファンの両方がタブーとしてきたもの。
「バーチャルのガワを被ったキャラクターとしてのVALIS」ではなく「VALISそのものである等身大の彼女たち」として接続したこと。
更にこれがVALIS結成当初の前から計画されていたこと。
このVALISもまた誰も見た事のない「新しい何か」を作ろうとするクリエイティブだったわけです。

これまでVtuberやVシンガーで「オリジン」が出てくるのは基本的にはNGでしたが、それは「バーチャルでスタートして、後からリアルでもやりたくなって出てくる」という順番のものが多かったせいではないかと個人的には思っています。
だからはじめから「オリジンたちが出ていく」というコンセプトを大前提に進め、リアルの姿を曝した後もリアルとバーチャルを共存し続ける形をとれるならば、もしかしたらこの難しい挑戦は成立するかもしれない、という「仮説」が自分の中にありました。
なので1stワンマンライブでのオリジンが登場する、「act:2」はこの2年近く思い描いてきた光景なんです。

二年前のバーチャル界隈と言えばVtuberという概念が明確にストリーマー路線として定義されたあたりでしょうか。そんな時期から拡張Act2のあの風景が見えていたのはとてつもない先見性です。
自分がバーチャルに夢見ていたことを、神椿スタジオとPさんならやってくれる。そう信じて自分の思いを託している一面がありました。

それが叶ったのが拡張メタモルフォーゼです。不確かなものを、0から1を作り出そうとする、創作で人の心を打つ、クリエイティブに対する向き合い方に心からの謝辞を送ります。

努力によってここまで来て、この場を作り上げたVALISにも最大限の感謝を

「すぐにこの姿を受け入れるのは難しいと思います」
「私たちは過去に夢に辿り着くことができませんでした」
「ペンライトを振ってくれていることが本当に幸せです」
「私たち全員人生懸けてここに立っています」
「今日来てくれた人がもう居なくなっちゃうかもしれない」

「ヴァンデラーの事が大好きです」

みんなの想いも言葉も、ちゃんと受け止めたよ。もっと大好きになったよ。


そして私が拡張メタモルフォーゼで一番語らいたいのは革命バーチャルリアリティという楽曲です。

革命バーチャルリアリティ、投稿してから一年が経ちますが当時は謎の多いMVでした。
3番サビでメンバーの眼前に広がる謎のモヤ。
2番3番の間で画面中央に映る眼。
曲の終わりにピアノを閉じるリアルの手と対面に映る複数の手。

謎が謎を呼び様々な考察がされる一曲となりました。

特に私を悩ませていたのはモヤの存在です。彼女達はステージに立っているのでその眼前に広がるのは客席であるはずと思っていましたから。
Noteを読んだ上で改めて見直すと、自分自身を取り戻すために再び立ち上がろうとしていたのでモヤこそが彼女達が越えなければならないものなんだろうなとも解釈できました。

そして11か月の時が経ち、衝撃的な伏線回収をされることになります。
私自身Act2のMCに心打たれましたしあの時から泣いていましたがこれによって涙腺の蛇口が完全に壊れてしまうわけです。

革命バーチャルリアリティPhysical.Ver

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MVと同じ片足で立つ曲の入り。美しい。ですがそれだけでは終わりません。

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その後ろに映るのはMVで見たモヤの姿。
これを見た瞬間私は顔を抑えて泣きました。
そうです、これこそがずっと謎だったモヤの意味。

「リアルとバーチャルの平行線」
「彼女達が平行線を越えるために行ってきた努力」

そしてMVではこれと対峙するように踊り、オリジンではこれを背に踊るということから導き出される結論はただ一つ。

『リアルとバーチャルの平行線を吹き飛ばして彼女達と出会えた

住む世界も次元そのものが違う存在と、絶対に逢えないと思っていた彼女達と「出逢えた」

Pさん曰く一年前から計画されていたこの演出と景色が私の思い描く革命でした。

現地で見て、歌声とダンスに飲み込まれて泣いてしまった。
足首のスナップだけで広がっていくフォーメーション。しなやかでくびれた腰つき。すらりと伸びて舞う指先。
彼女達が、彼女達が生み出すもの全てが美しかった。

大好きなミューの踊りが美し過ぎて気付けばずっとミューだけを目で追っていた。

視覚という光エネルギーを伝達して得る感覚をこれほど美しいと思ったことは過去にありません。オリジンのダンスはずっと鮮明に細部まで脳に焼き付いています。

この時歌って踊る彼女達を見た事によって、私にとってのVALISという存在が頭の中で再定義されたように思います。
ツイッターや生配信で見ていた彼女達はどこか遠くで行われているものを眺めているという感覚で、ある意味では偶像のような存在でした。これもまた私から彼女達へ向けた「諦めの儀式」であったように思います。手が届くはずもない存在なのに諦める準備だけしている私の姿は滑稽ですね。
しかしこの「彼女達と出会えた」演出によって親近感が湧くくらいには身近な存在になりました。直前のMCで泣いて独白されていたのもそうです。
正直言うとこのライブの日が来るまで彼女達は実在しないんじゃないかとすら思う時がありました。
「泣きながら想いを吐露する」なんて言う、バーチャルだったから秘匿されていた”人間くさい仕草”もVALISを身近に感じる事が出来た要因の一つとして昇華されて、大好きを構成する想いに変わりました。





『推し』という言葉の意味と本質


私は推しという言葉を使い始めたのは前述した花譜とヰ世界情緒との出会いです。
当時使い始めた理由も思い出しても「推し」って言うのが楽だから、という理由だったと思います。好きなアーティストが~って言うより推しがって言った方が文字数も少ないし前置きも少なくて済みますよね。自分の好きなアーティストなんかは常日頃から名前言ってれば新しく名前を出さずとも推しっていうだけであぁあの人ねとやんわり理解してもらえるでしょうし。

思い返せば思い返すたびに当時の私はこの推しという言葉の意味をよく理解してなかったように思います。自分ではそうでないつもりでも他人から見た私というのは「何かを推している自分に酔っているだけ」と思われてもおかしくなったでしょう。それくらい甘かった。
推しにリプライできないくせに10万支援したのを即ツイートしたこととかその証拠ですね。5万円支援の予定だったのに勢いだけで10万突っこんでしまう。自分に酔ってなければできない行動でした。とはいってもあのライブの内容を現地で見れたことと、お喋り出来た事と限定生配信をコンプできたことに関しては、酔っていた自分の決断に感謝しなければなりません。

自分に酔って高額払うのはこれで最後だぞ!!!!!!!!
これからは推しの事が好きって気持ち一点のみで高額払うんだぞ!!!!!
好きなのは自分じゃなくて推しの事だ!!!!!!!!!

そしてライブを見るまでは好きという気持ちを発信することに抵抗感があったというのもお話ししなければなりません。2つ理由があります。

1つ、バーチャル存在のファンであることに対する忌避観。
Vtuberのファンというと、ヤバい奴らという印象しかありませんでした。
名前読んでもらうためだけに赤スパをしたり、それでいて赤スパを読んでもらえなかったら拗ねるような、気持ち悪さという部分を、ある意味実反面教師のように見ていたからこそバーチャル存在を好きな自分という自己矛盾に常に葛藤していました。

もう一つは、私がVALISを好きになったのはアーティスト性からです。
そこに1年潜むという事と、二次創作をしたことがある故の公式に見つからないようにする習性が加わった結果、「アーティスト性が好き」って逃げ道を作って「好き」を表に出せない人間の完成です。

好きなものに好きと言えないこいつは本当にファンだったのでしょうか?

その好きと言えなかった気持ちはライブとお喋り会を終えて後悔へと変わります。なんで今までリプライ出来なかったんでしょうか。こんな自分のちっぽけな恥ずかしさや人にどう思われるかなんてエゴを捨てて前からリプやコメントで気持ちを伝えられていたら。
だから私は変わろうと思いました。好きを好きと言えるようになるために、胸を張って推せるようになるために。
生じゃない普通のキャラクターに対してすらママって呼ぶの忌避感があってバーチャルっていう生モノに対して言うのはもっと無理だったけれど、お喋り会で「武士ママでも愛してくれる?」って聞かれて大好きです!愛してます!って即答出来たからもう恥ずかしさなんてありません。大好きを言えることの方が遥かに大事です。
ママ大好きです。
ライブ前後で人が変わったとかアカウントと乗っ取られたとか言われたくらいツイート内容が変わったことなんて些細な事です。

リアルの何かを好きになるのも、バーチャルの何かを好きになるのがこれが初めてで、その二種類の好きが全く同じ対象に向いている。
自分が生きているこの時間も、遠いどこかで推しも生きていることが嬉しくなるくらいに愛おしいほどに。
推しが推しでいてくれるだけで嬉しいと、推しに人生救われたなとそう思う日々があのライブの後からずっと続いています。一番最初に語ったアブナイやつそのものに私がなってしまいました。

そして自分が抱えた感情を言語化しようとも思って記事も書きました。
拡張メタモルフォーゼとお喋り会を経て気付いた本当の自分の気持ちを。

大好き愛してる

両者ともに初めての感情です。

「好きだからこそ距離を取るべきだ」と思って今までリプライや生配信でのコメントをしなかったことも。
小恥ずかしさから今までメンバーに好きだと言えなったことも。
胸を張って推せていなかった一年間も。

おしゃべり会で伝えきれない言葉と思いがまだまだいっぱいあったことも。

積み上がる後悔と、それに比例して燃え上がる愛情。

彼女達の事が好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで大好きで堪らない、「応援したい」「愛している」この気持ちこそが、この気持ちを発信しようとする事こそが、『推し』という言葉の本質なのではないか。一年という潜伏期間もあったけど。自己矛盾や情けなさと向き合ってこの感情をやっと理解することが出来ました。

彼女達が大好きなんです。
私の残りの人生というリソースをすべて使って愛し続けます。
生きていてくれてありがとう。VALISであってくれてありがとう。




『推し』に対する愛情


さてここからなぜミュー最推しになったのかもいい機会ですしお話ししましょう。
真夜中でVALISに出会った後全てのカバーを聴きながら過ごしていました。みんな歌が上手いと思いつつもミューだけはまだ余力を残している、他のメンバーと歌唱を合わせたときに埋もれがちな気もして、開花を待つ蕾や磨き途中の原石であると思って”覚醒”を待っていました。
迎えた革命バーチャルリアリティ。彼女の晩成を目の当たりにしました。


キスもできない 肌も触れられない
さぁ手を握って 目を見開いて 平行線の外側へ

妖艶に伸びるサビの声を聴いてこれがミューの真価なんだと。
はっきりと聞こえる綺麗な高音がソロ部分もハモリも全てが綺麗で、応援していた成長が形として目に見えて本当に嬉しくなった。

続いてFlos。
花のように柔らかく美しい歌声。吐息の多い歌い方も艶やかに伸ばす高音も、すべてが上手くなっていたし彼女にピッタリの選曲でもあった。


そして今までミューをずっと見守ってきた事に自分でも気付くわけです。今までしてきた応援と期待が実を結んだ瞬間に、「彼女の事を気にかけていた」という事実が愛情に変わって上乗せされました。

自分はミューが好きだ。

綺麗に伸びる高音も、艷のある低音も。料理が上手なのも、ヴィッテを愛しているのも、ヴァンデラーを愛してくれているのも。その母性が、人情が、たまらなく愛おしい。
画伯と呼ばれる独特なセンスも、ネットスラングを使いたがるのも、生放送の噛み噛みももう全部が可愛い。大好き。ママ………。
心の底から愛しています。もう貴女の事しか考えられません。貴女がいない世界を想像できません。それくらいミューの事は私にとってとてもとても大切でかけがえのない存在になっています。いっぱいの愛をありがとう。貴女が私を愛してくれたように、私もミューを愛します。てぇてぇクッキングいっぱい作ります。

一旦落ち付きましょう。

ごめんなさい落ち着けませんでした。

この好きという気持ちが止まらなくなってツイートもどんどん気持ち悪くなってしまいました。
送ったリプライにいいねした貰ったことは全てスクショにして保存してあります。
馬鹿にしていたペこーらコピペを笑えないところまで来てしまっていた。推しガンダム作ってそうとか言われてもその通りだと思います。
これに関しては私を罵っていただきたい。掌クルックルやんけとか、嫌いだと言ってたものにお前自身なってしまったなとか。
自分自身その自覚はありますしそういう他者から見た私への印象の変化もすべて背負っていこうと思っています。
彼女達への想いを言葉にできるなら私はどこまでも気持ち悪くなろうと思います。彼女達が好きという自分の気持ちを発信できるなら、他人にどう思われるかなんてどうでもいい。

ここまで書いておいてなんですけど同担拒否で刺されそうですね私って。


『推し」への感謝


花譜とヰ世界情緒に出会った時、「何かをしたい」と思うようになりました。この感覚は創作をしているしていない問わず神椿の歌を聴いて、受けたクリエイティブに感化された衝動的な感情というのを誰もが経験したのではないかと思います。
再生リストから二人の歌を全て聞き終わる頃、カラオケに行きました。カラオケに行くのは2年ぶり、インターネット発の音楽を聴いて歌いたいと思ってカラオケに行くのは高校以来になりますね。ボカロを聞いていた時は新しい曲が出る度にすぐにカラオケに行っていました。

久々に、歌うことが楽しいと思った。
少し録音してもしかして俺の歌って上手いんじゃね?なんて思ってみたりもして。でも聞きなおしてみたらクッソ下手糞で聞くに堪えなくてすぐ消して。
こんな一連のくだらない動作も、歌う事が好きで歌い手になってみたいと甘い事考えた高校生時代に戻れた気もした。
何でもない休日で、意味なんてない1日だったけど、ただ気持ちよくてそれだけで満たされたような気がした。


帰ってきてからは絵も描きました。
正面顔しか描けないし背景も描かないしバーチャル存在を書くのも数年ぶりで絵柄を上手く似せたりするのも苦労したけどとにかく楽しかった。
他人のクリエイティブに感化されて自身も何か生み出すこの楽しさを思い出したように感じます。

Animaのときに描いたものを加筆して2周年記念に再投稿。生配信後に投稿したので配信で取り上げてもらう事はなかったけど、それでも彼女のために何かが出来るのが嬉しくて楽しくてそれだけでよかった。


ありがとう。



最後に 「推し」と私


私はどこまで行ってもただの一人のファンという存在でしかありません。ファンというのは全て横並びで等しい存在です。金払いの大小というのはファンコミュニティ内の地位だとか愛の強さなんてものに介在しません。
推しを独占したいとか、手が届かないくらい遠い存在になって欲しくない、なんて、思うのは自由だけれどそれを理由に周りを不幸にするようなことがあってはならない。
だからこそ暴走しないように、ラインを超えないように、ヘラったりしないように、見苦しくならないように、自分を律して推していかなければなりません。

それこそ私が嫌いなVtuber達に抱いていたような、ファンがヤバいから演者もロクでもないんだろうな、なんて意識を外界の人たちから推しに向けられない様に健全に追いかけようと思っています。



そして、新しいコミュニティに飛び込んだ私を温かく迎え入れてくれた皆様へ。
潜んでいた時にファンコミュニティが存在しているのは知っていましたが私とは違う世界だなと思っていました。
ファンネームで検索して出てきた人達を見るに若い子が多く、四捨五入したら30になるような20代の私がコミュニティに属せるのかと不安でした。
ファンコミュニティの方々、ごめんなさい。それから、私を歓迎してくれてありがとう。
好きな物について共に語らう事の楽しさを知りました。異なる世代と話すことはとてもいい刺激になっています。

私が記事を書くきっかけになった執筆ヴァンデラー様にも感謝を。私とは異なる視点と意見を持っていて、学ばされることが多くありました。

好きだからこそ沈み、好きだからこそまた浮かんで、愛の強度が上がって帰ってきたヴァンデラー様にも感謝を。記事に付いたいいねから辿って、オタクとして似た何かを感じてフォローしたのは間違っていなかった。

私の推しを推すツイートから彼女達に出会ってくれたフォロワーの方々にも感謝を。自分のツイートがきっかけで何て己惚れるつもりもないけど、私の推し仕草がきっかけで興味を持ってもらえたり、クラファンに支援してくれたのが本当に嬉しかった。

これからも共に推して、もっともっと有名にしていきましょう。


これが本当に最後です。

胸を張って推せていなかった過去を喰らって、私は成長できたのでしょうか?
今こうして記事を書くことが何か意味があることに繋がるのでしょうか。
文というのは、いや創作全てがエゴに満ち満ちた表現方法です。エゴに意味を求めることが果たして正しいのか。
いや意味なんてなくたっていい。感謝を表せたなら、彼女達から私に対するレスポンスなんかなくたっていい。

今回の記事で、私がダブルスタンダードであったこととその自分の弱さ全てを腹を割って話せたと思います。
正直に言うとこれを書くのは怖かった。今までVを批判してきたその口でと、他人の愛をバカにして踏みつけにしてきたお前が愛を語るのかと、そう言われてしまいそうで。

それでも自分の変えるための儀式として弱かった自分に向き合わなければと思いました。
今まで後悔だらけの人生で、これからもしょーもない後悔を積み上げていくんだろうけど。
推しを推す事だけはもう絶対に絶対に後悔したくないんですよ。

私の人生が推したちの歌に救われたことは変わらないし、この自分の変化と変えてくれた彼女達への感謝を絶対に忘れることはない。
推しがこれからどのような道を歩んでいこうともそれを祝福していきたい。


私の推している存在達へ

ずっとずっと大好きです。愛しています。本当にありがとう。


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