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完璧ではない、が完璧にイイ

 完璧に美しく、けれども、完璧が上手く働かないってことを知ってるから、いつも、ちょっとした失敗と隣り合わせになってることをアピールしてる。
 確かに、そういうきみに誰もが心を奪われてるよ。

『ぼくは勉強ができない』山田詠美

 月に2回、書道教室に通っている。いまは初心者用の楷書の練習課題をやっているところだ。
 小学生のころ近所のお習字教室に何年か通っていた。でも大人の書道はすこし違っている。それに、もう何年も筆を取っていなかったので基礎の基礎からやり直している。

 今週は「鳥」という字を書いた。これは見て分かるとおり横線が多い文字で、線と線の間隔を揃えバランスをとるための練習課題であった。
 先生がサラサラと目の前でお手本を書いてくれる。それを自席で何度も練習する。

 上手くバランスを取るのは思った以上に難しい。横線の間隔はもちろんだが、私の中の動物としての鳥のイメージ🦆が、一画目を中央に書かせてくれない。
 上半分(頭)が左に寄り、下半分(尾)は右に張り出して何だか鳥っぽくなってしまう。漢字の成り立ちを図にしたら中間あたりにこんなのが出てきそう。

 誰しも何らかの字の癖を持っている筈だが、それに加えて私は小さい頃から鳥がとても好きだった。それも空を飛べるからとかいう理由からではなく、鳥の動物としてのフォルムをとても気に入っていた。横から見た流線型がとても綺麗だし、なんか可愛い。

 そんな余計な「鳥イメージ」のハンデを抱えていたおかげで、今週のお稽古は困難を極めていた。もはや呪いだった。これは瞑想でもして雑念を捨て無の境地に至るしか方法が無いのでは…

 先生のお手本を真横ギリギリに置いて見比べ、お手本をもう一枚描いてもらって上に半紙を載せてなぞることもしてみた。
 半紙に沢山の折り目を付け、意味を捨てた線の塊として捉えて書くことは少し上手くいった。格段にバランスが良くなった。

 しかし出来上がったそれはパソコンの画面に出てくる文字のようで、スクリーンに貼り付いていれば違和感ないものが半紙に載っているととても不自然で、死んでいる。

 お手本の文字はバランスが良い中にも流れがあり、絶妙なゆらぎがある。何なら音が聴こえてきそう。
 先生はその筆で、完璧に近いまっすぐ水平な線を完璧に近い等間隔で引くことも出来るはずだ。でもそういう文字は書かない。

 そこで冒頭の小説を思い出す。完璧じゃないのが「なんか良い感じ」だし、とても魅力を感じてしまうものだ。

 これを思い出したのはもう一つ、DTMを勉強していた時だった。パソコンで音楽つくるやつ。

 DTMソフトにクオンタイズという機能がある。これは本来はちょっとずれてしまっている音の位置を本来のきっちりしたリズムに吸着させて揃えるような働きをする。リズムのずれを文字通り「完璧に」修正してくれる。

 だが、一度揃えたものをまた違和感の無い程度に微妙にずらして、ちょっとした揺らぎを作ったりする。すると不思議なことに、完璧なリズムよりも人を踊らせる力を持つ。

 更に音楽から「この揺らぎ何だかイイ感じだよね」の黄金比揺らぎパターンみたいなものを取り出したグルーブクオンタイズというものがある。これを使ってわざわざ音楽を不完全なスケールに合わせにいったりするのだ。

 例えば、自作の曲をトムヨークのグルーヴに調整する、みたいなことができる。曲調に合う合わないは勿論あるので、それが何だかいい感じの仕上がりになるかどうかはまた別の話だけど。

 やっぱりここにも、完璧にできる技術や知識がある、だけど通り越してスキをつくる。だってその方がみんな踊るから。我々は不完全に踊らされている。

 かと言って、初めからそこを狙えばいいわけではない。そんな絶妙なものはそうそう狙えない。鳥っぽい鳥の文字を鳥っぽくしたままにはしない。パソコンの明朝体になり半紙の上でいったん死んだ鳥をなんだかイイ感じの鳥にするためにせっせと練習する。

 大人の女がたまに甘えたりするのがいいのであって、ただの甘えた人間ではよくない。ピカソはピカソになったけど、とても正確なデッサンを描くひとだ。

 いったんある程度のレベルを通過したあとでないと、その本当の絶妙さはなかなか出せなくて、何となく嘘くさくなってしまう。そしてそこを飛び越えたふりをしているただの完璧じゃないものは結構巷に溢れていたりする。

 無意識に吸い寄せられてしまうほど魅力的な「完璧じゃ無い完璧」はとても時間がかかるものだ。だが、そこには時間をかける価値が確かにあると思う。

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