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Searching for the infallible("絶対的な信頼"への探求)

【Searching for the infallible(絶対的な信頼の探求)】

親が完全無欠・・「ではない」と知るとき

赤ちゃんは親のことを、完璧かつ完全に信頼できる存在として認識してる。ただ、実際はそうではないのでパニックになる。パニックを封じる能力を「無意識」に発揮している。それをカシャーヤ という。大人がトラウマとなった体験を忘れるという防御作用に似てるかもしれない。

カシャーヤ=フタをするということ

カシャーヤは、自分を傷つける体験(ヒムサー)からの防御機能。ただ、ずっとフタをし続けてると、成長途中どっかで人格形成上歪みが出ちゃいそうな気がする。私なんて自分で言うのもなんだけどめちゃめちゃ良い子だったのに、反抗期が凄まじかった。そのまま良い子に戻ってないし。
トータルで、適切に開け閉めが出来てた方が良さそう。ずっと押し込めてるのもガバガバなのも困る。カシャーヤと開放のバランスの問題。押し込めすぎる必要もないし、願望をなんでも我慢しろということでもない。「しがみつく願望」でなければ、願望で苦しまない(自分はこうあらねば系)。願望の種類を見分けて、適切に扱う

「無意識」のなかに押し込めたものへの対応

人は、多くの痛みを封じながら人生を進んでいる。必ずしも、それらひとつひとつを解決する必要は無い。ただ、どういう仕組みで自分はその対処をしたのか・或いは封じた筈のものが出てきた際にどうするか、を知っておいた方がいい。

「絶対的」への欲求の行先

親は完全無欠ではない、というのが人生最初の自己尊厳喪失。母親のお腹の中が絶対的に安心安全だったから、私たちはそれを求め続ける。つまり、絶対的な存在=イーシュワラ を潜在的に知って生まれてくるけど、その知識を忘れているという。だから、絶対的な存在を誤ってお金や承認欲求への執着 となる場合もある。

これまでも自己尊厳持てない問題を扱ってきた、ヴェーダーンタ勉強会。
今日はそもそも生い立ちからその仕組みになってるという話。誰しも「親は完全無欠ではない」と気づくときがあって、だから不可避。
ただ、小さいときには「親が絶対的な存在じゃない」ことで自己尊厳を損なうけど、大人になったら「相手は絶対的な存在じゃないから」と認識してることで上手くやっていけることもあるのかなと思った。身近な大切なひとに対してはより一層。

◆余談
松山千春氏は、ひとりで新聞作って権力に挑んでいた御父さんを尊敬してるのだけど、それでも親が老いていくことで変化も受け入れている。小さいときに「親が完璧な存在ではない」と知るのはショックだけど、大人になってからはその知識もあるし老いることに向き合える。だから人間は、この世界に突き落とされて泣いてるところから始まるんだと思う。ということで、松山千春の「父さん」です。ご査収ください。

過去は変えられないし、何か起きるたびに色んな感情に振り回される。けども。ヴェーダーンタの知識で、「あれはああいうことだったのかな」と整理し直せるし、今起きてることに対する受け取り方も変えられることが増やせる。 

今日もありがとうございました。

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