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共感と偽善とエゴの揺らぎ

今月のヴェーダーンタ勉強会。
まずダルマ(秩序)があって、それに准じることで自己尊厳が叶うという話。 自己尊厳とは、ダルマとの調和、イーシュワラ(社会・全体)とのハーモニーを言う。

自分の行いで喜びを得られるときとは

・自分が為すべきことを実現できている(仕事の種類や大小ではない)
・相手への共感・援助ができた

いずれもダルマに沿って、イーシュワラと調和した行いが選択できているというケース。根源的な善悪の分別(それがダルマ)を人は本来わかっているので、逆のパターンでは「あそこで手伝うべきだったのに、声をかけることができなかった」とか「・・あ”ー--・・」ってなる。実は自分で「こうすべきだった」という正解をわかっているから。ちなみに、法律に反してなくてもダルマに背いてる・・というケースもある。

プルシャ・アルタ

全ての人・どんな人にも望まれるもの。たとえば「安心」とか。ダルマもプルシャ・アルタである。

あらためてダルマとは

・この世界の秩序・道徳
・それ自体で独立した価値
・アルタ(安心)やカーマ(喜び)よりも上位

つまり

ダルマは絶対的な秩序なので、ダルマに合致するには、心地よさや好き嫌いで決めてはいけない。私たちは、自分の価値観や好き嫌いで判断しがちだけど、それではダルマに沿った選択ができない。
本来正しいのは【ダルマに合致する → イーシュワラと調和する →本質的な自己尊厳】であって、これが人間の究極のゴールと言われる。

・・という壮大な話では実感がわきにくいんだけども、実はとても身近な密着した話。日常で私たちは意識的にも無意識にも絶えず選択をしながら過ごしていて、そのひとつひとつにどれだけ意識的になれるか、に帰結する。人それぞれが価値観をもっていて、そのどちらが正しいのか、それはエゴではないのか、そもそもそれは価値観なのか感情なのか・・という判別ができtるのかどうか。『「わかりあえない」を越える』を参考に、自分と相手の会話を観察して分類するのも難しい。感情・ニーズ・リクエストがごちゃまぜになってるから、まずその前提が在るよって認識くらいはできるようにはなってきたかな。。

共感と偽善とエゴの揺らぎ

辻村深月さんの『ぼくのメジャースプーン』という小説で、「人は自分のためにしか泣けない」という言葉が出てくる。相手を可哀想と思っていても、究極的には"それもエゴではないか?"と。「誠実であるとは?」「人は自分のためにしか泣けないのではないのか」ということへの向き合いかた。相手に反省を促すことの難しさ。悪意、覚悟、身勝手さ。何が正しいかという正解、白か黒か、がすべてにはっきりつけられるわけではない。まして、自分は相手のことをどれだけ理解できてるのか。批判も共感も独りよがりになりうる。何を信じるか、何を一番に考えるか。”その決断に恥じない自分”で居られるか。そのうえで、自分の自由意志で選択する。

・・この小説ほどショッキングな事件でなくとも、私たちも日常でこれを繰り返しながら生きている。それに重点を置いてるかは、人によって大きな差はあれど。日常そのものであり、ダルマそのものでもある。

スヴァ・ダルマ ※スヴァ=個々の、という意味

「人の成長は、好きなことをするときにはなく、私がしていることを愛するなかにある」(Pujya Swami Dayananda)
自分の仕事だとどうだろ・・って考えると、
・仕事と割り切ってる仕事
・その人のために役立ちたいと思うからやる仕事
の2つある。スワミジの言葉は後者に当たるのかな。後者をもっと増やしていきたいけど、その為にクリアすべきことは色々ある。。(そもそもそればっかだと仕事として成立しないし評価もされない)

もちろんソヴァ・ダルマは、「仕事(ビジネス)」のことだけではなくて、社会的な役割・自分の様々な立場に付随するものすべてに該当する。

今回も濃厚で盛りだくさんだったので、松山千春で整理することにした

共感や寄り添うということが、私にとっては正直とても難しい。コロナや災害やその他・・相手の経験していることに、軽々しく何か返すことも、頑張ってくださいやかわいそうとかも言えない。「ごめんなさい、私は聴くことしかできなくて、うまく言うことがないのだけど」ってなっちゃう。そういう態度そのものも偽善かもしれない、自己防御かも。今回そうシェアしたら、「感情も自分自身のものというのは勘違いで、感情も秩序から生まれてくる現象であってそれ自体に善悪もない」と。エゴであろうとそれ自体は悪くないし、満たそうとするのも悪くない。寧ろ満たそうというのは、自己尊厳につながる。大切なのは、その扱い方がダルマに沿っているか

だから、相手に寄り添いたいと思うなら
・自分が正しい選択をできるだけとれるように、勉強を深める
・相手の為に祈る
それができることだと。

松山千春の言葉がヴェーダーンタと結びつくことが多い。
千春は、世界各地の紛争について「絵空事と言われようと、何を言ってるんだと言われようと、究極的には愛と対話しかない」とずっと昔から言っている。家族を愛しなさい、ふるさとを愛しなさい、そして貴方自身を愛しなさい。貴方は貴方として生まれたことが全てで、最後までなんとしても生ききること、命を使い切ること。そこからしか始まらない、という主旨を繰り返す。

これって、スヴァ・ダルマそのものだった。千春、スヴァ・ダルマだ! 千春スヴァダルマー--!

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