サヨナラの始まり

 1週間。
 流産になるだろうと言われてから、1週間。
 私の中の命は、必死に生きようとしていた。

 けれど、とうとう、私の中から去ろうとしている。

 感傷。
 そうとしか言えない。

 ただ、1週間の時間が、私にこの瞬間を受け入れるのに十分な時間をくれた。
 だから、存外落ち着いていられる。

 困ったのは、母への報告だ。
 そして、喜んでくれた同僚や、お世話になっている講師の方々への報告。
 なんて言ったら良いのか、分からない。

 いや、言うことなんて変わらない。
 ただそのままを言う以外に、何も言えることはないのだ。

 喜んでくれたから、心苦しい。
 主治医も「私のせいではない」し、「夫のせいでもない」と繰り返し伝えてくれた。ただ──細胞分裂がうまく出来なかったのだ、と、あくまでも生物学的に伝えてくれた。この心遣いは、産科医ならではなのだろう。

 悲しい。
 けれど、この1週間で私は生きる事と生まれる事について、ずいぶん考えた。
 私が生きる事を楽しむ事は、私自身の生命力を上げる事となり、やがては私の中に宿る命にもそれを分ける事になるのだろう。
 そんな風に、私自身は納得をした。

 私は食べる事に無頓着で、生命の根元を揺るがせた。
 休む事にも無頓着で、ずいぶん体に無理をさせた。
 誰かの役に立ちたい一心で、私自身の心の悲鳴を聞き入れなかった。
 そういうものを、いちばんに大切にするんだよ。
 それが私自身の幸せにつながるんだよ。
 それが自分を大切にするって事だよ。

 今回のことは、私の魂を目覚めさせる出来事だった。

 すごく食べた。
 よく寝た。
 仕事が休みなのを幸いと、ずっと読みたかった本を一気読みした。

 このほのぼのとした1日が、私の欲しいものだったと再認識した。
 そして、このほのぼのとした1日を手に入れる為には、ある一定の収入が必要な事もよくわかった。

 私は今まで、お金が欲しいと思ったけれど、何の為にそれが欲しかったのか、よく分からなかった。けれど、いつも欲しい、欲しいと思っていた。
 このほのぼのとした日が日常になったら、私はとても嬉しいと思う。
 その為に、私はお金が欲しいと思った。

 生きる事は食べる事。寝る事。楽しむ事。
 ほのぼのとした幸せを感じる事。

 それを手に入れる為に、私はどうやって生きていこうか。
 私の中に命が宿り、闘い、サヨナラをしていこうとしている中で、私は私の生と死についてずいぶん考えた。

 これは中二病的なところもあるかもしれない。
 その生活の為にお金が欲しい、というところに行き着いた事は、誰かにとっては恐縮ものな話かもしれない。
 けれど、私はこの出来事を、ただの悲しい出来事にしたくない。
 今回のこの出来事を、私と夫と、いつかまた私の中に宿る命の為に、幸せになる為の道しるべとしたい。

 その為に、私と共に過ごしてくれた、この1ヶ月足らずを、大切に想う。

 綺麗事に聞こえるかもしれない。
 強がりに聞こえるかもしれない。
 でも、誰かの感想なんて、私は必要としていない。

 私に起きたこの出来事は、私と私の中の命だけが、共有している。

 私はずっと怖がっていた。
 進む事を怖がり、同じところをぐるぐると回って、進まないようにしてきた。

 でも、それを終わりにしよう。

 今度こそ、終わりにしよう。

 そしてその先に、私と夫と私に宿る命の幸せがあると、信じていく。

 今、生きとし生けるものの命をやっと愛おしく想う。

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