『生存本能』 〜いま、私は此処にある〜
ホームレス(住所不定無職)からの復活を支えた
『破壊的文章術』
〜プレリリース版〜
一年前、私はホームレスでした。
世界中に新型コロナが蔓延しはじめたとき、私は移住していたマレーシアから日本に帰国。マレーシア国内で転職が決まり、就労ビザの発行を待つための一時帰国のつもりでした。
しかし、そのタイミングで新型コロナが世界中に拡がり、マレーシアは全土が都市封鎖(ロックダウン)。外国人の一切の入国を禁止。
世界の各国が次々に国境を閉じていきました。外国に入国できない。
そして私は、日本に閉じ込められました。
私は日本に家がありません。私には家族もいません。
住所、携帯電話番号、保険証、運転免許証。
何一つ、持っていませんでした。
マレーシアから帰国後には、ひとまず、母親の暮らす田舎の家に身を寄せたものの、私の母親は再婚して新しい家で暮らしているので、そこは「知らない男の人がいる、知らない家」でしかありません。知らない街、知らない家、知らない人。
私はすぐにその家を出て、関東に出てきました。
私はホームレス。
ホテルやネットカフェを転々。
自分の身体以外、自分が自分であることを証明できない。
住所、電話番号、仕事、お金。
すべてがない生活を想像したことがありますか?
私は一年前まで、そんな人でした。
警察官からの職務質問。
私は髪が長く、赤く染めているので、見た目からして怪しい。
おまけに大きなキャリーケースを二つ、引き摺って歩いている。
かなり目立ちます。すれ違う人から怪訝な視線を向けられるのが当たり前。
日本に帰国してすぐに、四度続けて職務質問を受けました。
私は身分を証明するものを持っていません。(パスポートにも日本の住所は記載されていないので、証明になりません)
まず、住所を確認されます。ありません。
そして、電話番号を確認されます。ありません。
次に、家族の連絡先を確認されます。ありません。
そして、そのまま派出所に連行されます。
「これは何だ?」と訊かれ、海外製のベイプ(水タバコ)についてずっと説明しても分かってもらえず、四時間以上拘束されたこともあります。
日本では販売されていない「ニコチン入り」のベイプ。
説明のしようがありませんでした。
また、私は「中国武術」の老師(師範)の資格も持っているので、スーツケースの奥の方に「太極剣」と「ヌンチャク」が入っていました。
一度、それを見つけられたことがあります。
銃刀法違反で逮捕寸前にまでなり、あくまで「模造刀(刃は切れません)であること、これは練習用であることを説明して、なんとか難を逃れました。
住所がないと、携帯キャリアとの契約はできません。
電話番号がないと、部屋を借りられません。
つまり、住所と電話番号の両方がないと、何も出来ないのです。
ホテルやネットカフェを転々として、チェックアウト(午前10時)からチェックイン(午後5時)までの間は、公園などで過ごしていました。
ポケットWi-Fiは持っていたので(月に一度、シムカードを新しく買わなければいけなかったけれど)、ネットには繋がりました。
誰もいない公園で、スマホの画面をじっと眺めていた。
それが一年前の私でした。
「積極的に自殺をしたいわけではない。
ただ、不慮の事故などで突然死んでしまえたら、きっと楽になれる」
ずっと、そんな風に考えていました。
三十代の黄金期。
〜世界が輝いて見えていた〜
私はいわゆる「インターネットビジネス」で大きな額を稼いでいました。20代の終わりから、30代にかけてのことです。
最高で、年収一億円。¥100,000,000です。
そこから経費や税金を持っていかれれるので、かなり減りますが、それでも「お金持ち」ではあったと思います。
「アフィリエイター」として一ヶ月に下の画像くらい。
「コンテンツ販売者」としてが、以下。
これは、おそらく誰もやったことがないと思いますが、「小説」をコンテンツ(アフィリエイト報酬を設定して、アフィリエイターの方々も販売できるように)として、売った結果です。
ただの小説を「9,800円」で売っていたのです。
どんな大文豪の小説よりも高価です。それでも500万円分近く売れていました。(現在はAmazonで販売しています)
毎月毎月、800万円くらいのお金が口座に振り込まれていました。
会社を経営していたこともありますが、従業員を雇い、法人税など支払いも多額だったので、個人のほうが儲かっていたのが正直なところです。
経営にまつわるストレスも多く抱え、つらい思いもたくさんしました。
なので私は、「社長」よりも「フリーランス」や「個人事業主」のほうが向いていると言えるでしょう。
この「お金持ち」だった日々にしていたこと。
「サイトから集まったオプトイン・リスト(メールアドレス)を、メールマガジン発行システムに流し込む」。
これだけです。
エクセルのファイルをダウンロードして、アップロードする。
5分もかかりません。
配信する内容は、予め書き溜めた「購買意欲を刺激する文章」。
要するに、広告文、セールスレターです。
それをステップメールで自動化し、一日一通ごとに自動で配信されていきます。
エクセルのファイルをオプトインサイトからダウンロードして、メルマガ配信システムにインポートする。ただそれだけ。
たったのそれだけで毎日、毎日、高額な商品が売れていくのです。
高級なキャバクラやクラブなどに毎晩通っても、お金は増えていく一方。
当時、私はサラリーマンでもありましたが、やがて退職して、このアフィリエイトとコンテンツ販売で稼いだお金をもとに、渋谷の一等地にに会社を設立しました。株式会社オフィスアリーというのがその名称。(十年ほど前に売却済み。今はもうありません)
当時に行っていたのは、個人でインターネットビジネスを行いたいという人のメディア制作、マーケティング、ブログ運用代行、SNSマーケティングや、コンサル、ブランディングなど。
また、作家/ライターとしての経験から原稿の執筆やテクニカルライティング、企業ホームページの作成、翻訳業なども手掛けていました。
都内で会場を借り切って、100人規模のセミナーを行ったこともあります。
私は外国語も使えるので、英語圏からいち早く情報を取り入れ、紹介することもできました。
インターネットビジネスでは、ジェフ・ウォーカーが「プロダクト・ローンチ・フォーミュラ(PLF)」を発表したときも、真っ先に取り入れましたた。(ただ、私だけではなく、多くの人たちも同じように)
そして、狂乱の宴が始まった。
この手法は異常ともいえる売上を簡単に作ることができたので、与沢翼を初めとした「ネオヒルズ族」と呼ばれる界隈の人たちは、とにかく儲け優先で、まるで「お金が出てくる打ち出の小槌」だとでもいうように、それぞれのコンテンツを売りつけることが当たり前になりました。
ただ、それは厳密には「コンテンツ」と呼べるほどのものではなく、『他の人にも同じものを同じ手法で売れ』という、アフィリエイト(連鎖販売にも近い)ことがほとんど。
ただ、そこに登場する人物だけが違う。
「ドリームプロジェクト」だの「資産継承プログラム」だの「夢の宝箱」だの。
成功者としての自分をアピールするための「札束画像」、「高級外車」、「タワーマンション」。
六本木、銀座、麻布などの高級クラブでシャンパンタワー。
私自身、そんな場に何度か居合わせたこともあります。何十万円もするドン・ペリニオンを次々に飲み干していく。
自分のサイトで集めていたメルマガ読者のメールアドレス。
私は多くても一日に30件くらい。コツコツと無料で集めていました。
そのメールアドレスが「3,000円以上」で売買されるようになっていく。
最終的には「一つのメールアドレスが10,000円近く」にまでなったのを見たことがある。
それでも、元が取れる時代があった。
数千万単位のお金をかけて、大量のメールアドレスを購入する。
その大金で購入したアドレスに対して、ステップメールを送る。
プロダクトローンチで動画を次々に見せる。
毎日、毎日メールを送り、新しい動画で、煽り続けて、畳み掛けていく。
購買意欲を煽り、期間限定、数量限定、特典付き、フリー戦略、クロスセル、バックセル。
「ご購入ありがとうございます! あなただけにさらなる特別コースを用意しました!」
まずは、30万円、次に80万円、次に200万円、最終的には300万円。
購買心理を利用した定型化された戦略。
一つのローンチで数億円をぶっこ抜く。
まさに狂喜乱舞。
同じコンテンツの「首だけ」をすげ替え、ただの無名な若者だった誰かが動画に登場する。大げさな身振り手振り、抑揚を付けた虚しく響く大声。カメラ目線、表情の作り方までもが、そっくり。誰も彼も見分けが付かない。
そこに登場する「キラキラしたお金持ち(風)な人たち」は、個性もなくただひたすら「金儲けは素晴らしい」と連呼する。
次々に生み出される、クローン人間。
毎夜繰り返される、乱痴気騒ぎ。
私はそんな状況に嫌気が差しました。
「買うだけで儲かる」、そんなものはこの世に存在しません。
「人間の欲望」を操り、「幻想」を金に変えるだけ。
飢えたものが飢えたものを獲物とする。
やがて、私はそんな喧騒が嫌になり、東京を離れることを決意しました。
四十代の戦線離脱。
〜世界は平和に満ちていた〜
故郷である兵庫県姫路市。
世界的に有名な「姫路城」。それ以外には何もない街。
そんな土地で、私は嫁とともに不妊治療に専念することにしました。
「子供が欲しい」というたっての私たち夫婦の願いを叶えるために。
何度も病院に通い、念願が叶ったのは三年後。
私は四十三歳になっていました。
この間にも、私はただメルマガを配信していただけで生活できていました。
ただ新しくリスト(メールアドレス)を収集することはしていなかったので、月収は60万円くらい。
それでも、田舎では十分な暮らしができましたし、会社勤めをしている友人などより遥かに収入は多い。病院代もたくさんかかりましたが、余裕があったので、収入に関しては特にそれ以上を求める気持ちはありませんでした。
その後、子育てのために私自身の故郷を離れ、義実家がある高松市へと引っ越しました。
一番近くのスーパーまで、車で15分。田んぼと畑と、うどん屋。
そんな場所でした。
私はその土地で、プログラマなど、企業内外注として働きながら、子育てをする父親になりました。
そこは私が知っている「日本」とは異質な場所。外部から新たに引っ越してくる人はまったくいない。いくつかの会社に勤務したが、そこにいるのは必ず「地元出身者」。都会からわざわざ転入してくる人など、どこにもいない。
新しい文化、情報がまったく入ってこない。
これはどこの地方でも言えることだと思いますが、同じ方言を喋り、同じ情報を共有し、同じ場所で生活している。そこにアップデートがかからない。
「移動する」という行為を排除して、その場にあるもので間に合わせて生活する。目の前にあるもので、そこにある情報だけで、何とかする。
そういった印象でした。
これは私の地元である兵庫県姫路市も同じ。
まず、本屋がない。
ジュンク堂と紀伊国屋と三省堂をのぞいて面白そうな本を探すというようなことができない。
それから文化施設がない、美術館を巡ったり、演劇を観に行くということが気軽にできない。
そして、そこには「他者」がいない。
生まれも育ちも地元。同じ環境で育ち、同じ方言を話し、同じ暮らしぶり。興味の指向も同じ。
外国人との接点もほとんどなく、「世界」と「日本」を分けて考えていて、世界の一端を形作っているのが日本という考えはない。
知らない場所、知らない人と「出会いたい」という欲望そのものがない。
「ムラ社会」という言葉に顕される精神的な閉鎖性に支配された同一種だけが存在する世界。髪型も顔付きも服装も、誰もが私には同じに見えていた。
「他者との出会い」が人生のすべてだ、と
私は考えています。
私は元々海外志向が強く、旅行や短期移住を繰り返し、翻訳会社にも勤務していました。アメリカに会社を設立したこともあります。短期移住、短期滞在で、多くの国を訪れていました。
そんな私は以前にも増して、頻繁に海外と日本を行き来するようになり、そして海外移住を決断しました。
私はマレーシアを選択しました。
夫婦間の意見の違い、義実家にも、親戚縁者にも意見は受け入れられず。
何度も対立しました。
「生まれ育った街から出たことがなく、都会で暮らしたことがない」。
そもそもそういう考えの家族、親族だったので、海外移住などは許される環境にありませんでした。
そして、私は離婚しました。
その数日後に現地企業の就職試験を受けて、一ヶ月後には渡航していました。
海外での就職、マレーシアへ渡航。
十分な準備もできず、限られた時間の中での渡航。スーツケース二つだけを日本から持ち出しての海外生活の始まりでした。
マレーシアのクアラルンプール。
都心部は、東京とも遜色のないほどの大都会。発展途上国ならではの洗練化されてないところも確かにありますが、日本の地方都市よりはずっと発達しています。巨大なショッピングモールがいくつもあり、ペトロナス・ツインタワーという世界で最高の高さのツインタワーがあります。
(NYCのWTCがテロで崩れ去ったあと、それ以上の高さの塔が建設されました)
他にもスカイツリーのようなKLタワー、伊勢丹、ダイソー、イオン、ファミリーマート、セブンイレブン。なんだってあります。
日本の地方都市とは比べ物にならないくらいに都市化されています。
特にITインフラは、日本よりも遥かに、圧倒的に進んでいます。
スマホひとつで、タクシー(Grab)を呼び、目的地まで移動して、支払いもすべてキャッシュレス。行政機関や病院などとのやり取りも、すべてオンラインで完結します。
複数の民族が暮らす多民族国家なので、いくつかの文化が混在した日本とはまったく違う光景が広がっています。こればかりは、実際に海外で生活しないと理解できないはず。想像だけでは補えないことがたくさんあります。
東京にいるときに感じる「多様性」とはまた違う、完全な異国。
東京には、たくさんの人がいて、たくさんの会社があり、たくさんのお店があり、たくさんの文化施設があり、たくさんの情報がある。
ただそれらは一定のフィルターを通過したものであって、いうなれば「日本的」に加工されたものであって、本来のものとは異なる。まるで本場とは程遠い中華料理のように、すべてが日本向けにカスタマイズされている。
仕事は忙しく、まったく休みは取れなかった。
さらにルームメイトになった日本人は最低なやつでした。
部屋を借りる際に日本円で二十万円近くを貸して、それを返してというと、「貸したお前が悪い」、「不要な引っ越しをさせられたから、その賠償金を払え」などととんでもないことを言い出す。日々、酒を飲みたいと言えば私が払うし、家賃も電気代も水道代もすべて私が払っていました。
「返さないとは言っていない。ただし今は返せない。そして貸したお前も悪い」。こんな人間と付き合うつもりはすぐに失くしました。
ルームメイトについては、衝撃的なエピソードがあったので、ここに書きます。
ある日、空が明るくなりかけた時間に部屋に戻ってきたルームメイト。
「『合計20,000リンギットを盗まれた』
同僚と三人で行ったブキッ・ビンタン
(マレーシア随一の歓楽街)で」
と、突然言い出しました。二度目の給料日の翌日のことでした。
彼は一応、私への借金を返すと口先では言っていたので「だからお金は返せない」と伝えたかったようです。
まるで海外での生活を「ディズニーランドに遊びに来た」という感覚で過ごしているにだろうな、と常々思っていましたが、ここまでとは。
『20,000リンギット(日本円で50万円以上)』。
つまり三人分の月給すべて。
これは『盗まれてはいない』。ボッタクリにあっただけ。
ジャラン・アロー通り(道端にテーブルを並べた食べ物屋がたくさんあって、お酒もたくさん飲める毎日が縁日のような通り)で、記憶をなくすほどの深酒。
給料日の当日でもあり、浮かれた気分でそのまま路面店のマッサージ屋(要するに風俗店)に入り、「別のコースもあるから(当然、売春行為」と二階の別室に誘われ、そこで監禁されたそう。
まず、財布に入っていたお金すべてを抜かれ、パスポートと社員証を取られる。そしてわざわざATMまで連行されて、銀行口座の預金も下ろさせられた、と。
そして、警察を呼んだが、彼らは(僕も含め)外国人であり、不法就労者でもある。警察官から、さらに600リンギットの賄賂を要求され、それを支払うことで解放され、部屋に帰ってくることができたということでした。
いくら海外とはいえ、ここまで極端な目に合うことはなかなかないですが、「危機感のない日本人」の典型のような、まったく何も考えずに海外だというだけで、旅行気分ではしゃいだ結果がここにありました。
私はその話を聞き終えた直後、Grab(タクシー)を呼び、その三人を連れて、マッサージ店に向かいました。その車中で、日本大使館に電話を入れ、どう行動すべきかの指示を仰ぎました。
「外国人が、海外でパスポート、社員証、お金を失った」
(このとき、VISAは誰も持っていません)
これがどういう状況なのか、
海外という「アミューズメント施設」にまるで旅行気分で来てしまった
当事者たちは誰も理解していませんでした。
危機感とは情報量に支えられ、その情報は簡単には手に入らない。
情報を自ら取りに行かない者は、生き残ることはできない。
彼らには決定的に「想像力」が足りていなかった。
そのまま殺されてしまっていても、何もおかしくはない。
私はコンバットナイフを持ち、マッサージ店(実態は風俗店)に出向き、彼らのパスポートと社員証、クレジットカードを取り戻しました。
お互いにナイフをチラつかせながらの交渉でした。古い鉄筋ビルの2F。薄暗く赤いライトに照らされた狭い一室で向かい合った肌の黒い男の顔は今でも鮮明に覚えています。
しかし、その後も日本円でおよそ10万円が入った財布をトイレに忘れて戻ったらお金を抜かれていたと、警察に駆け込む(日本ではないので、財布を拾った人が盗まないことはおよそ考えられず、たとえ落とし物として届けられたとしても警察が盗みます。海外では当たり前です)。
ゲンティンハイランドというカジノに行っては大負けをする。
「彼女ができた」と言い出し、週末ごとに呼び出されて散財をしているようでしたが、実質それは風俗嬢に客としてカモられていただけ。(しかも言葉が通じていないので、ロクにお互いに意思疎通もできていない)
私のルームメイトは、絶望的なまでに想像力が足りていなかった。「海外生活は初めてだから、分からないのも仕方がないだろう!」と開き直り、私のお金で生活し、借金も返済することなく、浮かれた気分のままに己の身を危険に晒し続けていました。
家賃や公共料金の支払い方も分からず、パスポートもまた何度か紛失したし、私以外の同僚にも借金をして、外国語を習得する気もなく、人に迷惑をかけ続けていた。四十歳を越えようかという年齢にもなって。典型的な「『外部、他者を想像できない』島国日本の田舎者」である、と私は思っていました。
「最悪を想定し、最善を尽くす」。
杞憂に終わったとしても、この心構えがないことには生きていくことはできません。
私はもう、なるべく日本人とは関わらないようにしようと決めていたので、ルームメイトにムカつきはしましたがなるべく会話をしないようにして、寝る時間以外はずっと街へ出ていました。
しかし、会社内の私の属する部署は「まるっきり日本」。
日本語しか話せない人が大半で、平日は上司の部屋に集まって(マレーシアの部屋は日本では考えられないくらい広くて安い)でお酌をしてご機嫌取り。その立ち回りが上手な人が出世していく。
会社内の私の口癖。
「ここは日本じゃない! I hate Japnese culture!
(私は日本の文化が大嫌いだ!)」
私はプライベートでは(仕事で必要な場面以外では)日本語を話さない、と決心しました。会社の中で同僚の日本人と話すときでさえ、です。
行き付けのバーや、ヘナアートのお店、日用品や食料品を買うお店、コンビニでも、ずっと「フィリピン人」だと言い張っていました。
その甲斐あって、というのもおかしいですが、マレーシアの生活は私にとって本当に楽しいものでした。
私にはたくさんの外国人の友人ができ、日本にいるだけでは決して出来なかった体験、絶対に知り得ることがなかった外国人の本当の考え方、人生観などを知ることができました。
マレーシア人はもちろん、インドネシア人、ネパール人、インド人、フィリピン人、タイ人、バングラディッシュ人、and so…
国籍がよく分からない(実際、パスポートさえ持っていない)人も含めて、いつも周りに誰かがいて、その人たちの部屋を泊まり歩くような生活でした。基本は英語で話しながらも、マレー語、中国語、タガログ語、ヒンドゥー語などが飛び交う。
ボーダーを超えた。
そんな感覚が、私にはありました。
いつ生まれたのか、誰が両親なのかも分からない。パスポートさえ持っておらず、船に乗ってマレーシアに入国してそのままなんとか生き延びている。
「自分が誰であるか」さえ判然としない、そんな人とも出会いました。
バングラディッシュから渡航し、そのままマレーシアに滞在。
仕事は風俗嬢。そんな女性とも友達になりました。
「私の名前は私にも分からない」という彼女の言葉が今も心に残っています。
希望に満ちた一時帰国、のはずが。
しかし、私は渡航して半年ですぐに一時帰国しました。
理由としては、いつまで経っても就労ビザ(および滞在許可証)が支給されていなかったので(もちろん違法行為です)、その会社に見切りを付けました。
海外での現地就職はそんなに甘いものではない、と痛感しました。
今度はしっかり就労ビザも出してくれて、マレーシア国内でも評判のいい会社に転職しようと、様々なツテを使って別の会社の内定を取りました。
すぐにマレーシアに戻るつもりで、私はあくまで一時帰国という気持ちで日本へ帰国。
マレーシアには帰る部屋もありましたし、荷物も置いたままでした。
幸い転職先もすぐに決まり、あとは就労許可証(VISA)の発行を待つのみでした。それまでの期間は国内旅行を楽しもうと、ホテルを転々としながら、日本でのんびりと過ごしていました。
そして、突然。
「明日からマレーシア全土は完全に都市封鎖(ロックダウン)する」というニュースが入ってきました。外国人の入国は一切禁止。
日本でも新型コロナは話題になっていました。でも、まだまだ「クルーズ船」が話題になっていたくらいの時期。日本の感染者のほうが多く、マレーシアではまだ十数人といったところ。
しかし、世界で一番最初にロックダウンに踏み切ったのが、私が戻ろうとしていたマレーシアだったのです。VISAの発給も一時停止されました。
私は、そのようにして、住所不定無職、電話番号さえ持たない、「ホームレス」になりました。
ホテルを転々としながら、
収入を得るためにできること。
この時点で、私はマレーシアの現地企業の内定を持っていました。
つまり、就業時間内にWi-Fiを掴むことができていれば、仕事はできる。
しかし、それが出来ない。元々時差があり、さらに夜間シフトなどもある。ホテルの一室で夜中に大きな声を響かせることができない。
渡航したくても、世界中がコロナに覆われ、そもそも飛行機が飛んでいない。
このとき、私にあったのはスーツケース2つ分の着替え、僅かな貯金、スマホ、パソコン。私には援助をお願いできるような親族や家族もいません。
とにかくお金を稼がないと、ホテル暮らしができなくなる。いや、このまま時間だけが経過すると、食べ物を買うことさえできなくなってしまう。
とにかく「日銭」を稼ぐ必要がありました。
私は「クラウドワークス」に登録して、出来そうな仕事を探すことから始めました。けれど、本当に安い仕事しかありません。一文字0.3円などで文章を書く。それしかなかった。例えばこんな記事を書きました。
しかし、収入はこの程度でした。
このままでは生きていけない。いずれ貯金は尽きてしまう。
追い詰められた私は、まず住所を持つために外国人向けのシェアハウスに入居しました。私がとりあえず住める場所はそこしかなかったのです。
日本人でありながら、一時滞在する外国人と同じ境遇です。
そして、私は住民票をそこに入れることで、携帯電話番号を手に入れることができました。
意気揚々とマンションの賃貸会社に物件を見に行きましたが、審査に通らない。
理由は勤務先がない、収入がないから。
私はスーツケースいっぱいに詰めていた服を売り、通帳への振込履歴を作りました。
結果として、賃貸の審査に無事通過。(それまではマレーシアの通貨リンギットでしか振込履歴がなく、審査には通らなかった)
これで、長く続いた私の漂流の旅は終わり。
ロフト付きのワンルームマンションを借りることができました。
ここにたどり着くまでにおよそ一年かかりました。
住所と電話番号がある。
そんな普通の日本人になるまでに一年かかったのです。
一国を動かした「破壊力✕文章力」。
新しい部屋に引っ越して、数日後。
とある会社からフェイスブックのDMを通じて連絡がありました。私の記事がマレーシア政府に届き国家が動いた、とそこには英語で書いてありました。
上記の記事について、私にはマレーシア政府機関から詳細レポートをするようにとのメールが届きました。
Twitter、Facebookの日本人グループなどでも話題になっていました。
(その時点では、執筆途中だったのですが)
「自分の書いた文章が他国を動かした」と光栄なことでした。
しかし、私はそれよりも何とかして収入を得なければなりません。それどころではなかった、というのが正直なところ。
持っている服を売れば一応の収入は作れる。それは分かっていたのですが、電話番号を持っていなかったので「メルカリやヤフーや楽天にさえ登録できない」、これがホームレスだった私でした。
私はメルカリで持っていたアクセサリーや服を売って、かろうじて生き延びることができました。
そして、Twitterで私はふと「文章のコンサルをします」と告知しました。何人かから申し込みがあり「完全に無料」でコンサルをしました。
(上記の画像はマレーシアのコールセンターで同僚だった人の原稿です)
「無料である」というのがよくないことは分かっていましたが、やはり途中で止めてしまう人が出てしまいました。
私はこのとき、まだ住所がなくホテルを転々としながら暮らしていました。まともな収入源もない。それでも、私の経験をもとに、文章を書くことの素晴らしさ、あるいはそれでお金を稼ぐ喜びを伝えようとしていました。
しかし、最初は意気揚々と始めるのですが、結局、自分では何もしない。完全に人任せで、すぐに諦めてしまう。往々にして「代わりに私が書いている」という状態になっていきました。
失うものが何もない分、「切迫感」がない。これはあまり良いことではありませんでした。
なので、私はやり方を変え「結果が出た後の後払い」でコンサルをすることにしました。(稼ぐことができなければ、お金は貰わない)
稼げた金額の10%を受け取るようにしました。
これでもある程度は結果を残せる人はいましたが、やはり「本気度が足りない」人が多いという印象。
そもそも、それは「自己申告制」でしかないので、本当はいくら稼げているのか、私には分かりませんでした。
正直に告白すれば、私には彼らの気持ちがよく分かりませんでした。
「なぜ、もっと必死にならないのか」という思いがあった。苛立った。
私はほんの少し前まで、ご飯を食べるお金にも困っていました。
それまでやったことがないメルカリの販売でなんとか生計を立てていたのです。そして「破壊的文章術」を伝えて、稼ぐ方法を教えてあげているのに、どうしてもっと必死になってくれないのだろう。なぜ、もっと努力してくれないのだろう。
「教え方が悪い、バカにされるのはもう嫌だ」
こういった台詞を残して去っていく人さえいました。
「文章には自信があるし、余裕で記事なんて書ける!」と始めるときには自信満々に叫んでいたにも関わらず、結局10本の記事さえ書き上げることができずに。私は奥歯を噛みしめることが何度かありました。
付け焼き刃ではない、本当のスキルは長い鍛錬の末にしか身につかない、というのが私の考えです。
唯一、僕に残された武器。
それが「破壊的文章力」だった。
そのあとにはこのような文章も書き、過激さと正確な情報を組み合わせることで、こちらの記事を書いたことであるポータルサイトに掲載され、収益化できています。
マルチ商法を痛烈に批判する個人的体験とジャーナリズムを組み合わせた記事です。
真昼の明るさしか見たことがない者に、
夜の闇の深さが分かって溜まるものか。
日本に帰国してからおよそ一年。ホームレス生活もなんとか終焉。
自分の部屋を借りることができてようやく生活も落ち着き、私は有料で文章のコンサルタントを行うことにしました。SNSを使った集客。
私にこのスキルがなければ、今頃はまたホームレス生活をしていたことでしょう。今度は、もっと深刻な「お金がない」という理由で。
私はこれがあったからこそ生き延びることができた、とも言えます。
「ブログで収入を得たい」という方には、ドメイン取得、WordPressのサーバへのインストール、DBとPHPの設定、テーマの導入、カスマイズ、SEO対策、Google AdSense申請など。
また、さらにそこから派生して、会社を経営していた経験をもとに起業コンサルや手続き代行、ホームページ作成やプログラミングなどのエンジニアとしての案件も受注しています。IT業に限らず、建築業や、コンサル業、NPO法人など内容は様々。
そして、本旨である「文章の書き方」の編集/校正/チュートリアル。
これまで数十人の文章を読んできました。もちろんそれぞれレベルの違いはあります。最初からしっかりした文章を書くことができる人もいる。
しかし、そこにはある共通の弱点があるようにも思います。
「話すことはできても、書くことができない人たち」
多くの人の文章を読んできて思うのは「話すことはできても、書くことができない」という人が多いということです。
同じ内容。Zoomやライン通話では、きちんと伝わってくる。しかし、文章にすると支離滅裂になってしまう。
LINEやメッセンジャーで短いメッセージをやり取りして、「それはこういうこと?」と何度も何度も確認しないと、情報が伝達できない。
そういう人は一方向に向ける文章、例えばメールだと何を書いてあるか分からないので、確認のために電話をしなければならない、というオフィスシーンでもよく遭遇するあの場面は象徴的だと思います。話し言葉を書き言葉へとコンバートできない。
「読まない人」、読まれない文章」
「どうやって調べたの?」と尋ねると「You Tubeを見た」。
そう答える人が多くいます。文章の書き方についての質問です。
あるいは「会社を設立するにあたって会社法をどうやって?」でも、同じ答えが返ってきます。
そして「あの作家の小説を読んだことがある?」と質問しても同じです。
「You Tubeで要約動画を見た」。
あらゆる情報を「話を聞き、映像で見ている」。
つまり、文章を読んでいない人が多いのです。そもそもお金を払って、本を買うことをしない。新聞も読まない。マンガばかり読んでいる。
お手軽に、簡単に情報を手に入れようとしてばかり。
圧倒的に場数が足りていないのです。
「なぜ?」
「文章で書かれても分かりづらい、長い文章は読みたくない」
時々、私がパソコンの画面上でTwitterのタイムラインやニュース記事、ブログなどを読んでいる際、そのスクロール速度に驚かれることがあります。
ランダムのアクセスの状態で文意を掴んでいくので、スクロール速読は一定ではなく、早くなったり遅くなったり、ときには戻ったりする。
普段、文章を読み慣れていない人は、文章を「楽譜のように見ている」。
文章を読むとき、「一字一句を脳の中で音読している」。You Tubeで要約動画を見ているように、あるいはテレビでアナウンサーが原稿を読み上げているのを見るように、すべての文字を「音」に変換している。シーケンシャルにアクセスしている。
そして、その作業に疲れてしまい、最初の数行以降はまったく理解していない。
今は、インターネットさえあれば何でも情報は手に入る時代。
そんな中、広辞苑、広辞林、国語辞典を持っている人はどれくらいいるのでしょうか?
「言語化」しようとするとき、むしろ「映像化」の知識は邪魔になります。
〜文章論〜
「破壊的文章力」を身につけるまで
私はどこで文章の書き方を学んだか。
私の父親は高校の国語の教師です(すでに亡くなっているので、でしたと言うべきですが)。
子供の頃から、家中に文学書や学術書がありました。壁一面の本棚だけでは足りずに、本だけが積み重なった倉庫のような部屋もありました。
マンガを読むことは許されず、テレビも見せてもらえませんでした。
とにかく本漬けの毎日。
五歳の誕生日プレゼントが「柳田國男全集」だったことは強く印象に残っています。同じ兵庫県の出身の詩人・民俗学者で「文學界」にも多く寄稿していたので、父親が相当の影響を受けていたことは想像に難くありません。
父親は国語教師である傍ら、小説を書き同人誌や商業誌に寄稿していました。親族には小説家もいて「いつか筆一本で食べていけるようになりたい」と口にすることもしばしば。
しかし、その想いは実現されること無く、四十六歳で私の父親は癌によって亡くなりました。
私自身が大西洋に遺骨を散骨するように過去のすべてを彼方の流れに舞い散らせ、マレーシアに移住したのが「四十六歳」。
偶然ではなく、この歳に決断したのは、そういうわけがあります。
四十六歳という年齢は、私にとって生まれ変わるべきときである、私はずっとそう考えて生きてきました。父親が見たことのない広大な景色をこの眼でしっかりと望むのだと。
(それまでもいくつかの国に移住はしましたが、知り合いもいない国に、単身移住は初めて)
私は父親亡き後、学生時代から、そして卒業後も「大阪編集教室(ライターコース)」、「NCF(なんばクリエイターファクトリー・ライターコース」、「大阪文学学校」と3つの学校に通いました。ライターとして、あるいは小説家としての勉強を続ける日々。(ちなみに大阪文学学校の同期生には「玄月さん」という芥川賞受賞者がいます。隣の席にいた人が、すごい人になりました。それに引き換え、私は地方のマイナーな文学賞のみ)
その後は「関西Walker」などの情報誌、「月刊アスキー」などのIT系の雑誌などでライターとして原稿を書き、同時にテクニカルライターとして、IT機器の取扱説明書を書き、その翻訳もする、という生活をしていました。いくつかマイナーな小説の賞を獲りましたが、それだけで食べていくのは、とてもではないけれど無理。
そして東京のマニュアル制作/翻訳会社にヘッドハンティングされたのが、大阪から東京へ上京するきっかけになりました。その後、自分の会社を設立しました。
・雑誌/情報誌ライター
・小説家
・テクニカルライター
・翻訳家
会社を経営するまでは上の4つの肩書を持っていました。
また実用系のコンテンツ販売では、以下の物なども販売していました。
私自身が海外に造詣が深いので、輸入転売に関するものです。
これらの発信からポータルサイトから取材依頼が来たこともあります。
これもまた「文章」なのです。これはデザインや動画ではありません。
「すべての原点には言葉と文章がある」
では、ここから優れた文章を書くための講座を始めたいと思います。
「どうしても伝えたい、伝えなければならないことを書く」
それが破壊的文章力です。それが結論です。
ここで目指すのは、SEOライティングではありません。
アフィリエイトで稼ぐ、とかではなくて「一つの国の常識を変える」。
それくらいの破壊力がある文章のことです。
「破壊的文章講座」
〜序章〜
文章を書くことは「翻訳」に近い、というのは常々、私が感じていることです。
ある内容について話しているときは、主語であるとか、述語の位置、時制の一致、倒置法などを特別意識することはなく「思いついた順に」話している人が多い。
英語では特に「語順」が大切だと言われ、会話でもS(主語)、V(動詞)、O(目的語)の順番を意識する人は多い。
しかし、これは英語に限ったことではなく「日本語の文章」でも非常に重要な要素であると、私は考えています。
「会話」であれば、声のトーンや大きさ、あるいは身振り手振り、表情でかなりの情報を伝えることができます。「あれ、それ」でもある程度は通じてしまう。
しかし、「話し言葉」と「書き言葉」は明確に違うものであるし、話し言葉を書き言葉への置き換えは『翻訳作業』に非常に似ています。様々な言語外のニュアンスを含む話し言葉を、「文字だけ」で理解できるように内容をアセンブル(組み立て直し、理解できるようにすること)するのが、「文章を書く」ということです。
そこには違ったフォーマットとルールが存在します。
「日本語が話せるから」といって「日本語が書ける」とは限らない。
これが「話し言葉を書き言葉へ変換する」という例になります。
「話し言葉」は耳で聞くもの。「書き言葉」は目で読むもの。
この違いが分かっていない限り、「文章」を書けるようにはなりません。
「他者の存在」を想像することで、
初めて「書く内容」が見えてくる。
「想像力」について、私はこの文章で何度か述べています。身近にいる人、友達や同僚や家族。そういった人たちとはまったく違う、「共通認識」のない人。そんな人物が想像できるかどうか。
まだ執筆途中なので、絶対に購入しないでください!!
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