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短編小説|濃藍

冷めきったコーヒーを飲み干し、半端に書き殴った原稿を寄せ集めて鞄に突っ込んだ。とにかく人の気配のする場所で時間を潰せれば、別に喫茶店でなくても良かった。店を出て、隅田川沿いに向かう。体は鉛のように重く、頭もぼんやりする。橋の手すりに腕をのせ、鈍く揺れる川面をじっと見つめていた。鴨の親子がゆっくりと泳いでいく姿は懐かしい気持ちがする。

「ダメですよ」、突然左腕を掴まれ、反射で振り解いた。青いシャツを着た小柄な女性だった。無視していると、もう一度「だからダメですってば」と、もう一度強く腕を掴まれた。なんなんですか、とつぶやくと、「あなたは心が灰色に染まっている。この後、何もかもどうでもよくなって、そのまま川底に吸い込まれてしまう」と言う。
見ず知らずの人間のお節介をちゃんと迷惑だと思えるくらいにはまだ心が死んでいないことに驚いた。仮にそうだったとしてあなたに関係ないでしょう、と返すと、女性は「じゃあ。私が溺れても何も思わないんでしょうね」と言い残し、勢いよく川の中に飛び込んだ。あまりにも急で可笑しくなり、このまま放っておくのも馬鹿馬鹿しくて川に飛び込む。互いにずぶ濡れになった顔を見合わせた。髪はベタベタで、服は水を吸って重い。良い年をした成人どうしと思えなかった。久しぶりに何も考えずに笑った気がする。

女性は川沿いのホテルで清掃員をし、仕事後に夜間大学に通っているという。クラフトビールを煽りながら身の上話を聞き流し、適当に相槌を打つ。見透かされているだろうが、取り繕わなくてよいので居心地は悪くなかった。
こちらも少し話をした。全てが何かの繰り返しに思えて意味を感じないこと、段々何をしても面白くなくなったこと。いつも低温火傷のような、緩やかな死を纏っている気分であること。「全然わからない。人間ひとりが二、三十年生きただけでわかることなんてたかが知れている。何でも知ったような気になっているだけじゃない。」そっちのほうが知った気になっているだけでは、と思う。

行く当てはないが金はあったので、女性が勤めているホテルに泊まることにした。部屋には大きな窓があり、隅田川が見渡せるリバービューで悪くない部屋だった。書きかけの原稿は水に濡れた後の乾きかけで、続きを書くことは諦めた。丸めてごみ箱に投げ入れた。それからコーヒーを淹れたっぷりブランデーを注ぎ、一気飲みをした。
清掃をサボりにきた女性と、嫌いな映画や好きポテチの味など他愛もない話をした。「さっきから酒ばかり飲んでいるけれど大丈夫か」と言われた。しらふだと現実に酔ってしまうから、と上手いようなよくわからない返答をする。来る日も似たような会話を続け、気が付くとホテルに住み着いていた。

ホテルには観光客もいれば、家をもたずアドレスホッパーとして宿泊しに来ている客も多かった。夜になると誰からとなく空き部屋に集まり、ネットフリックスを見た。本当に見たい映画はサブスクにはないよね、と言いながら、ネットフリックスにある映画もそれはそれで楽しむ人たちの集まりだった。年齢や職業については互いに関心を持たず、ひたすらに映画の感想を語り合った。
見終わった後は決まって枕投げをした。各々の部屋や他の空き部屋から枕やクッションをかき集めて、人数の五倍くらいあるそれらを訳がわからなくなるほど投げまくるとき、皆頭を空っぽにして遊ぶことができた。映画と枕投げの日々にも満足してホテルを出る。
適当な駅で降り立ち、ホテルに住み着くことを繰り返す。現地で知り合った、よく知らない人々と映画の感想を語り合い、枕を投げている瞬間は生きているという実感が湧く。枕を投げ終わった後の温泉は体中に染み入って至福のひと時で、ふといつも片頭痛の頭が軽くなった。

それからありあまる富を使って、清澄白河のあのホテルの向こう岸にホテルを建てることにした。建設中ふらふらと隅田川の橋のうえを歩いていると、いつか一緒に川に飛び込んだ女性がいた。前に会った時よりも覇気がなく、少しやつれている。シャツもシワシワで白髪が目立った。「きっとあの時は寂しかったんだよね」と、虚ろな目をしながら口元だけ笑う。川底に吸い込まれてしまいそうだった。あの時のように今度は自分が飛び込むしかないと思い、手すりから体を乗り出した。鈍い痛みが全身に広がる。打ち所が悪く、意識も朦朧としてきた。ふと見上げると橋のうえでやりどころのないような顔をした、あの女性の顔が見うっすらと見えた。

目が覚めると病院の天井が見えた。映画でよく見るシーンのようだ。女性も付き添いでベッドの横に座っていた。「無理して飛び込まなくても良かったのに」、と涙ぐんでいた。退院からまもなくホテルの竣工日だったので、女性を呼び館内を案内して歩いた。興味をもっていそうだったので、従業員として女性を雇うことにした。今度は清掃ではなくフロントやコンシェルジュを担当してもらうことにした。無事開業して、毎日が満室というわけではなかったものの、それなりの人数が定期的に宿泊しにきた。あまり収益性を考えずに始めたが、ギリギリ黒字で女性に給料を支払う余裕はあったのでこのままでよいと思った。
終業後は空室で女性と夜な夜な飲み明かした。いつも盛り上がるのは嫌いな映画の話で、勧善懲悪のような二項対立的な思想の作品は好まなかった。時には一緒に映画を見ることもあった。互いにホテル内で互いを撮りあい、集まった映像を繋げてはショートムービーを作った。写真もたくさん撮った。作品はホテルのフロント横のスペースで展示していると、若手の映画監督が女性に興味を示して名刺をおいていった。自分の作品に出てほしいとのことで、女性は時々フロントの仕事を休み、撮影に出かけるようになった。女性の居場所はきっとそっちの方があっていると思った。しばらくすると女性は若手監督の作品で演技をするようになり、そのうち一緒に住むようになった。ホテルの仕事は辞めてしまったが、フロントは新しい女性を雇ったので寂しくもない。展示はあの時のままにしている。展示目当てに来る客も多く、アートホテルのようで悪くないなと思う。

またホテルの周りを歩いていると、あの女性を見かけた。少し先の交差点で左から右に渡っていった。声をかけようと交差点で小走りしたが、もう姿は見えなくなっていた。まあでも、また隅田川沿いで会えると思って、元の道に戻った。ホットコーヒーでも買って帰ろう。

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