『ルックバック』の思い出

『ルックバック』、覚えていますか?

そう、Twitterやってりゃ嫌でも目にした藤本タツキ氏の読み切りマンガです。面白かったね。
当時はそれはそれは話題になった作品で、だから僕自身も読んではいたけど、話題には出したくなかった。これはいつもの病気なので特筆するほどの話でもないが、実は裏でちゃんと読んではいまして。『ファイアパンチ』も『チェンソーマン』もマジメに読んでないけど、『ルックバック』は何回か読みました。その理由は面白いとか面白くないとかではなく、読み切りならではの手軽さと(当時は)無料だったというのが大きいと思う。

さてさて、作品自体はけっこうな数の人に刺さったと思うのでこういう話題を出すべきではないと思いつつ、この作品に関する“炎上”の話をしたい。
今さらになってそんなキレイでもない話をする理由はふたつ。ひとつはもう誰も『ルックバック』の話をしていなさそうだから。もうひとつは、あの炎上が僕にとってちょっと意味があるものだったからだ。

※以下、『ルックバック』のネタバレを含みます。ちなみに電子版(Amazon)はすぐ読めるので、一食抜いても大丈夫そうだったら買って読んでもいいかもしれません。

炎上の経緯

あんまり話したくないが、炎上の話をするのにその経緯を書かないわけにはいかないので、あらためて調べて分かったことをまとめます。ご存じの方はすっ飛ばしてOK。

まず『ルックバック』は「マンガ」を描くふたりのクリエイターの人生をつづった作品です(多分)。そしてストーリー中のデカいイベントとして、主人公ふたりの片方がある男に殺されてしまうという事件が起こります。あとこのふたりは学生のころからすでに誌面掲載を果たしていたりと、マンガ家としての成功ルートを歩いていたことは書いておいても良いかもしれません。要するに将来有望な才能が事件によって失われてしまったという形ですね。そこからの展開は読んだ人には僕のテキストじゃ物足らないだろうし、読んでいない人は自分で楽しんだ方が良いので割愛。

話題になった修正はこの殺人犯にまつわる描写で、修正前の版におけるこの男は「大学内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」という供述をしていました。最初の修正後には、それが「誰でもよかった」という供述に変更されている。読者視点で、彼の犯行の動機がガラッと変わっている(ように見える)のがお判りいただけますでしょう。

この修正について少年ジャンプ+編集部は「作品内に不適切な表現があるとの指摘を読者の方からいただきました。熟慮の結果、作中の描写が偏見や差別の助長につながることは避けたいと考え、一部修正しました。」という説明をしています。「なぜこの修正が行われたか」の詳細は明確にされていない形ですね。

ただ評論家の荻上チキ氏が「特定の精神疾患群に対して、『対話不能な凶悪犯罪者』であるというステレオタイプ的な読解を生み、補強しうるというのは、その通りだと思います」とコメントしたり、精神科医の斎藤環氏が「やむを得ないとは思うけれど通り魔の描写だけネガティブなステレオタイプ、つまりスティグマ的になっている」と言及したりと、本作の表現に批判的な目線が注がれていたのは事実。ついでに補足しておきますが、ここで名前を挙げたおふたりはいずれも『ルックバック』という作品そのものについては高く評価をされているようでした。

この辺の情報から素直に見ると、上記の表現は荻上チキ氏の表現を借りれば「特定の精神疾患群に対して、『対話不能な凶悪犯罪者』であるというステレオタイプ的な読解を生み、補強しうる」からこそ修正されたと考えられる。要するに“特定の精神疾患群”のイメージダウンや、当事者があらぬ誤解を受けることを回避したいという意図があった……のではないでしょうか。上でも書いている通り、編集部が明確にしているわけではないです。当時の背景はこんなところ。

ちなみに、今回noteを書くにあたって単行本版をAmazonで買って読みましたが、そこの供述は「ネットに公開していた絵をパクられた」という文章になっていました。確かに「絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」よりは上の課題をクリアしているように思えるし、「誰でも良かった」よりはオリジナルに近しいような気もする。犯行のイメージを描いたシーンでも「見下しっ 見下しやがって!」というセリフを確認できたので、個人的には単行本版に救われるところがありましたね。なぜこんな表現で僕が救われるのかについては、ここから順を追って記していきます。

人殺しに対する同族意識

最初に立ち位置を表明しておきます。僕は炎上とその対応については特にどうとも思っていません。批判した人の理論もまっとうだと思うし、修正されるのも分かる。藤本タツキ氏レベルなら無断で編集部が修正してるってこともないだろうし。法律家でもなければクリエイターでもない、精神疾患に対する知識と理解が十分にあるとも言えない外様の一般人が口出すことではないですね。

「じゃあなんで今さら蒸し返したの?」という声があると思うが、なんというかその時に感じたことを残しておきたいと思ったんですよ。なのでこれは感想文であって主張ではない。ただ作品自体ではなく、それが置かれた状況を交えた感想である……っていう話になります。作者、編集部、批判した人、その他もろもろのあらゆる人に対して糾弾する意図は一切ありません。

本題に入ると、僕が『ルックバック』で一番好きだったのはこの修正された人殺しでした。

というか主要キャラクターで共感できるのがこの人しかいなかった。主人公ふたりはひたすら絵を描き続けている怪物みたいな奴だし、あとのキャラクターは背景といって過言ではないような扱いだったと思ってます。

修正前の彼は先ほども書いたように「絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」みたいな表現をしていて、これを僕は精神疾患の症状とかではなく、と“よくある感情の延長線”としてとらえていたわけですね。有り体な言葉で示すと劣等感。

実際に僕も近い感覚に襲われたことはあるし、「その人やその人の作品を見ると生きているのが辛くなる」みたいな経験もある。世間は病気というかもしれないが、僕にとって犯人の思考とか感じたものは決して理解不能な域にはなくて。別に殺したからといって自分が認められたりとかはないと分かっていても、自分が持っていないモノを持った奴を殺したいという衝動に駆られるのはそれほど不自然じゃないと思っています。結局のところ、実行にまで踏み切るときの心理については分からないんですけどね。

彼の背景についての詳しい描写はほぼないに等しいですが、僕にとっての彼は、僕自身と同じ「クリエイターとして自分を認められなかった人」に映った。彼にとって自分が殺した相手が将来有望なクリエイターだったかどうか、確かめる術は恐らくないだろうけど、少なくとも読者から見たときの構図は「世間からも自分からも認められなかった人間が、将来ある人間を殺した」で間違いないはず。分かりやすく“嫉妬”という単語で表しておきましょうか。

この他人に嫉妬するというのはある意味でクリエイターという存在に向き合っている証左でもあると思っていて。別にクリエイターって、名乗るだけなら1行のテキストを書くだけでも名乗れるじゃないですか。つまり嫉妬心というのは、クリエイターという存在の価値を想い、その上で自分を「優れたクリエイターである」と認められなかった悲しい客観性の産物だと思うんですね。

最初に読んだときは修正前だったので、僕はそこの共感をベースにして彼を好きになりました。“好き”という表現はちょっとズレているかもしれないが、同族に対する愛着とか、「もしもこの話に俺がいたとしたらこのポジションだな」という確信は抱いていましたね。あれからしばらく経ちますが、その感覚は今もそれほど変わっていません。

しかし修正後(単行本になる前)、彼は「誰でもよかった」系の殺人者として描かれるようになりました。これはこれで嫌いになりきれないキャラクター像なんですけど、僕からはちょっと遠ざかってしまったような気がして寂しかった。修正が発表されたタイミングでは精神疾患云々の話もちゃんと把握しておらず、ただ表現が修正されたことだけを知ったので「俺たちはフィクションの中にさえ存在させちゃいけない人種なのか」みたいな想いもありました。自分を投影したキャラクターが世間の正しさの前に消されちゃったような感触がしていたんですよね。それはつまり僕自身に対する世間からの否定でもあったわけです。それまでも否定されていないと感じていたわけじゃなかったけど、マンガという比較的懐の広いエンタメでも明確に拒絶されるというのはちょっとダメージが大きかったのかもしれない。

実際のところ、修正の理由は(恐らく)そうではないので当時の僕の寂しさは的外れです。でも、そのとき感じたことは今でも本当なので書き残しておきたかった。だいぶ色褪せてしまった思い出ではあるけど、いまだに覚えているというのはそれだけ自分にとって意味のある出来事だったと信じています。

“加害者意識”とともにあれ

乱暴に纏めると“犯罪者に対する共感”というのがこのnoteの核というわけですが、こういう話ってリアルでしにくいんですよね。その理由の一つに、シンプルに危険な人物だと思われてしまうところがある。一応僕もカスみたいに社会人のママゴトをしていて、それで金を手にして煙草を吸っているので、危険人物のレッテルを貼られるのは困るところもありまして。そもそも普段からロクでもないやつなので、冗談みたいにいっても冗談で捉えてもらえないこともある。一度、ある事件の犯人が「お前じゃないよな?」と高校時代の友人と親に言われたのは良い思い出です。

ただ、僕のことを危険視する人はちゃんと僕のことを見てくれているな、というのもあります。実際、この件に限らず犯罪者に対してシンパシーを感じることは少なくないし、今も生きていて許されるギリギリのラインを歩いているとは思う。家庭環境に恵まれたからといって、全員が真人間として生を謳歌できるわけではないという良いサンプルになれるんじゃなかろうか。この辺の感触については太宰の表現がめちゃめちゃしっくりきていたので、引用しておきます。

非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。

『人間失格』太宰治

いまやインターネッツでもこういう話ってなかなかしにくくて、たぶん大々的に語っていたら「死ねや犯罪者」みたいなリプライが飛んできそうという。まぁ殴れるサンドバッグがあったら殴りますよね。殴りたくなる理由も分かるから、殴られないようにこうしてコソコソnoteに書いているんですけど。

実際、僕が“犯罪者”という立場で警察のお世話になっていない理由って「運が良かったから」に尽きると思っているんです。これは「スピード違反がバレなかった」とかそういう話ではなく、たまたま僕を一般人の範疇に繋ぎとめるものが折々にしてあった。それは家族だったり友人だったり、あるいは顔も知らないフォロワーだったり、アーマード・コア新作の存在だったり。どれかが失われても、他のどれかによって足を引っ張られた。その中のどれかひとつでも欠けていたら、いま僕が娑婆でのうのうと暮らしていることはなかった……かもしれません。要約すると、僕が人殺しになっていないのはただ運が良かっただけです。あと度胸の問題もあるが。

逆に捉えれば、この先で人殺しになる未来は大いにあり得るとも言える。そういうことを考えていると、いま世間に名が広がってしまった“犯罪者”の人を叩く気力も湧かないし、どちらかというと同情的な視線で見てしまうんですよね。「明日は我が身」という感触で過ごしているので。

これは善良な読者の皆さんには関係のない話かもしれませんが、僕は可能な限りこういった“加害者意識”を抱えたまま暮らしたいな、と思っています。そろそろ25年も生きてしまうという体たらくである以上、恐らく今後僕が自身の信じるものに沿うためには、自らの加害性から目を背けるべきではない。こんな形で生を受けたのは僕の責任ではないといえ、自殺の選択肢を手に入れてからずーっと延期し続けているのも事実。となれば己の加害性を自覚して過ごすのが、生き物として大きくなってしまったことに対するせめてもの贖罪なんじゃないでしょうか。

「それ、生きやすいんですか?」と問われるとたぶんそんなことはないが、生きやすいだけが正解でもないんじゃないかなと。好きなように生きて好きなように死ぬため、いまはそうしている……というのに尽きます。


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