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神さまを殺した

非常に難解だった。
この作品の解説本がたくさん出ているというのも全く不思議なことではない。それくらい難解だった。

そもそもこの作品を読もうと思ったのは吉満義彦の「文学者と哲学者と聖者」というこれまた難解な(苦笑)本と格闘していて、吉満氏がしきりに「悪霊」を取り上げて論じているので、じゃあ読んでみようか、という流れだった。

この作品が読みにくい理由は色々あるが、
①登場人物が多い。呼び名が名前になったり苗字になったりころころ変わるので誰が誰なのかを把握するのが大変。
②主人公が誰なのかよくわからない。客観的に物事を見ている人物はいるけれど、この人自身名前が出てこないしどういう人なのかわからない。
③話がよく飛び、さらに思わせぶりで実際にあったことなのか、どう取ればいいのかわからないことが多い。

天下の文豪をディスるようで大変恐縮だけれど、これが率直なわたしの感想。前半はステパンという文化人とそのパトロンの話。そうか、ステパンさんのお話なのかと思いきや、後半になるとステパンの息子ピョートルとパトロンの息子ニコライが中心になり、さらに前半から「なにか恐ろしいこと」が起きるぞ起きるぞと何回も前フリがあるのだか、それが実際起きるのはかなりラスト近くで、しかも畳み掛けるように起きる。これでもか、というくらい起きる。

暗い話ではあるが、唯一笑ったのは後半の慈善パーティの中でカルマジーノフという作家が自作の詩を朗読するのだが、どうもこの作家にはモデルがいて、それがツルゲーネフであるらしい。ドストエフスキーはツルゲーネフのことが嫌いだった、というのが作中わざわざ注釈で入っているので、この詩の朗読場面が俄然面白い。

ーところでそのテーマだが……このテーマがまた誰にもさっぱりわからない代物なのである。何かの印象、何かの思い出を綴ったものにはちがいなかった。だが何の印象?何の思い出だろう?わが県の知恵者たちも、朗読の前半は額に皺を寄せて一生懸命その意味をつかもあとしたが、ついに何一つわからなかったので、後半はもうお義理で聞いているだけであったー

この後さらにものすごく細かいダメ出しが延々と続くので、この部分だけドストエフスキーの素の部分が出ているようで非常に面白かった。「何もここまで」みたいな感じもあって「こいつ嫌い」全開モード🤣

さて中身に話を戻すと、端々に「神を信じているのか?」とか「信じてなどいないだろう」というセリフが出てくる。時代としては社会主義台頭の初期で労働者の権利とか革命とか、そんな思想も描かれている。特にピョートルが世界を平らにするんだ、そのためには格差をなくさなくちゃ。だから医者や教師は皆殺しだ、と言うところはカンボジアのクメール・ルージュを思い出してゾッとした。カンボジアでは今でも地面を掘るとあちこちに人骨が埋まっているのが発見されるという。殺されたのはそういう身分の人たちだった。

でもそういう思想は背景であって本筋ではない。タイトルの悪霊というのは聖書に出てくる場面から引用されていて、それはこんなふうだ。

ーイエスが舟から上がられるとすぐに,汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており,もはやだれも,鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが,鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい,だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり,石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると,走り寄ってひれ伏し,大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス,かまわないでくれ。後生だから,苦しめないでほしい。」イエスが,「汚れた霊,この人から出て行け」と言われたからである。
(中略)
 ところで,その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに,「豚の中に送り込み,乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので,汚れた霊どもは出て,豚の中に入った。すると,二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み,湖の中で次々とおぼれ死んだー

想像するとかなり異常で恐ろしい光景だが、この悪霊が乗り移った「豚たち」。これがこの作品に出てくる人々なのではないか。ステパン氏は今際のきわに「この豚が我がロシア」とつぶやく。

しかしわたしが最も強く心を揺さぶられたのは実は巻末の「スタヴローギンの告白」だった。この箇所は最初は本編に組み込まれていたのだが、連載小説でこの回だけ編集長が掲載を拒否したというのである。どうも刺激が強すぎる、という理由だったらしい。

確かにすごかった。
スタヴローギンというのはニコライの苗字で、もちろん彼の性格とか生い立ちなどは本編を読まないとわからないのだが、わたしはこれはこれで優れた一個の短編として読んだ。

本編のニコライはハンサムで地位もあるけれど変人であちこちでトラブルを起こす男として描かれてはいるが、実際の内面を描くところは少ない。その内面がこの告白の中にはたっぷりと描かれている。

下宿先の母親から虐待を受ける少女に暗い喜びを見出し、少女が自殺しに小屋へ行くのを見ながら時計を見て時間を計るニコライの残虐さ(多分これで掲載不可になったと思う)その少女が死ぬ前に母親に言ったひとこと。

「神さまを殺してしまったの」

これが強烈だった。
まさしく胸を貫いた。

なんだろう。この衝撃についてあれこれ言いたくないのだ。ただこの言葉を反芻したい。そういう気持ちにさせられた。

ニコライはその後もこの少女がしばしば自分の前に幻影として現れ、そのことで精神を病んでいく。当たり前だ。もっと苦しめ、みたいに思ったけれど、それでも彼が自分を評して「何事にも浅かった。何事にも熱中できなかった」と嘆くその気持ちは少しわかるなあ、とも感じた。嘆くということは彼は本当は深くなりたかったのだ。求めていたのだ。もがいていたのだ。

神がいないことを証明するために僕は死ななければならないんだとピストル自殺をするキリーロフという青年も強烈だけど、わたしはこの少女のひとことに打たれた。このひとことに出会うためにこの難解な本を読み通したのだと、そう思うくらいだった。

読書ってそれでいいのかも知れないと思う。たったひとつの言葉に出会うために膨大な書のページをめくる。これが読書の真の醍醐味なのかもしれない。


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