2021/8/9~8/15

一ヶ月ぶりの月次締めも落ち着き、病院に入院する母の様子について聞くとやはり退院しても要介護状態が続くだろうという事になり、老人ホームを探すことになる。退院予定は一月後なので急いで探さねばと仕事を切り上げて各所に電話を入れた。

昨年まで父を老人ホームに入れていたので、とりあえずお世話になった施設と連絡をとる。父によくしてくれた相談員の人とも半月ぶりに話したが、ちょうど父が夢枕にたったところだったという。そんなことあるのか。

次に老人ホームを紹介する業者に電話を入れて、希望の地域と予算を伝えて条件に見合う施設をピックアップしてもらうよう依頼した。父の施設を探したときに最初にこれをやらずにえらい苦労したが、手数料を取られるわけではない(施設側が成功報酬を払う)ので、さっさと依頼したほうが吉である。アラフォーにして親の介護認定から葬儀までのイベントをはやくも経験しているので2週目といった趣がある。自分の結婚イベントは発生しませんが・・・。

https://www.minnanokaigo.com/

相続、老人ホーム探し、ワクチン摂取、そして四半期決算と10月まで盛りだくさんで、下手をすると詰むスケジュールである。はやくまたどこかの観光ホテルに旅行に行けるようになりたい。


マイホーム政策とホームレス

ホームレスや生活保護受給者は世の中の役に立たないから切り捨ててよい、というインフルエンサーの発言が話題になっていたが、今読んでいる「マイホームの彼方に」にちょうど気になるところがあった。

戦後の深刻な住宅不足を受けて、日本政府は住宅ローンを通じて国民に積極的に住宅を購入させることを促し、住宅ローン返済のための長期的な賃労働から将来的に住宅資産を取得するというライフモデルを提示して中間層の厚みを増すことを狙った。

だが一方で、住宅を購入するまでたどり着けない低所得者層というのもいたわけだが、彼らへの積極的な住宅支援というのはあまり行われてこなかった。

建設省が考える公営住宅は最底辺の階層は相手にしない。その対策は厚生省でおやりください。私の方は住宅経営だから、経営が成り立つような、少なくとも一定の家賃が支払える人でなければ入れませんよ。・・・・貧乏人は切り捨てる。それはそうでしょう。とにかく住宅の絶対数が足りないんですから、どこにつくっていくかです。日本の復興に貢献する人をさておいて、お荷物になる人だけを優遇していたら、日本国家の再建はできない。

1950年代、地方自治体が低所得者層向けの公営住宅を整備するための公営住宅法創設に関与した建設省住宅局の川島博が述懐したときの言葉だそうである。

いわゆるメンタリストの言ったようなことの源流がここに見受けられる気がする。戦後の経済成長に乗って中間層として身を立て家族を作りマイホームを手に入れるようなガイドラインは引くが、そこから外れて国家の繁栄に寄与できないものは切り捨てる。

また中間層に合流したものは消費者として合理的な選択を選んだつもりがいつの間にかマジョリティに取り込まれ保守的になり、自分たちの生き方から外れた者には努力不足として冷ややかな目線を浴びせる。

国家としてそう国民をデザインした日本政府はバブル崩壊とともに新自由主義へと転換していき、やがて自己責任、自助というメッセージを国民に発して、弱者をさらに切り捨て、それがいつのまにかインフルエンサーの口をついて出るまでになった。

必ずしも時代が弱者切り捨ての世論を醸成したわけではなく、むしろそれに至る政策、国家の態度というものが存在したわけで、あるインフルエンサーの暴論はその表出の一端にすぎないのではないだろうか。

感傷マゾ vol.6 少女という名の幽霊特集号

twitterで見かけて購入してみる。

幽霊も心霊ビデオも興味がなく(ホラーが苦手なので)、いうほど少女に執着がない(きらら系アニメ作品を見るのが習慣のくせに)が、ノスタルジーと記録メディアの発展は切り離せないという指摘は頷けた。

ある時代への郷愁を誘う情景をメディアに乗せて表現する時、記憶を定着させていたメディア(写真、カセットテープ、ビデオテープ等)に特有のノイズ(ブレ、ボケ、解像度の低さ、映像の乱れ等)を懐かしさの表現として、未来のメディアでエフェクトやフィルターとして再現することは常套手段となっている。むしろノスタルジーが演出として洗練されるにつれ、原体験とは切り離された者にもそのシズル感が脳裏に残り、原体験なしのノスタルジーが記憶として定着する。

そもそも我々がノスタルジーを感じる日本の原風景、という表現自体が国鉄の個人旅行キャンペーン、ディスカバージャパンのような広告戦略等に影響を受けているわけで、我々が感じるノスタルジーの大半が虚構であると考えるべきだろう。

もはや郷愁というジャンル自体が実体験とは結びつかなくとも誰でもメディアから消費できるものになり、それが懐かしいという一点だけで個人的な苦い記憶の体験と結びつく時、そこに美的な感覚とともに反芻的な痛みを伴うマゾヒスティックな感傷が誤発生してしまう。それを甘受してしまう事態を感傷マゾと呼ぶのだろうか。

そういえばyoutubeでドバイの街並みを見ていたら、かつて自分が子供の頃に夢見ていた(あるいは未来の姿として夢想させられていた)街の未来図を見させられているようで懐かしい気持ちになった。

かつてあるとされていた未来を遠くの国の姿に見て、苦い気持ちと共にノスタルジーを甘受してしまうこの気持も感傷マゾと呼べるのかもしれない。



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