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車窓を求めて旅をする⑮ 再び走る風景 ~阿佐海岸鉄道・土佐くろしお鉄道~




再び走る風景 ~阿佐海岸鉄道・土佐くろしお鉄道~

     阿佐海岸鉄道

 冬を感じる朝だった。特急の窓の向こうの農村は農作物の刈られた畑が広がっていた。岡山に着き、寝台特急サンライズ瀬戸を降り、瀬戸大橋線の快速マリンライナーに乗り継いで、グリーン車の座席から鉄橋越しに海から昇る朝陽を見て、今日が温暖な日になることをようやく確信した。
 サンライズ瀬戸は高松行きだが、私と同行者のTさんは岡山で快速に、四国に入って最初の停車駅坂出(さかいで)で予讃(よさん)線の普通列車に乗り継いで高松にやってきた。それは、パノラマ席と呼ばれるマリンライナーのグリーン車の最前席に座るためであり、四国の入口駅で四国のフリーきっぷを購入するためだった。
 鉄道に於ける四国の入口は長年高松駅だった。岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ宇高(うこう)連絡船が鉄道と接続していた。昭和六十三年(1988)四月十日に瀬戸大橋が開通して、本州と四国がレールで結ばれることになり、高松駅の立ち位置が変わって三十年以上が経過している。
 宇高連絡船を体験していない私たちが高松駅に少しばかりの旅情を感じるとすれば、行き止まり式ホームの風情であったり、ホームの頭端にある讃岐(さぬき)うどん店だったりする。ガラス張りの駅舎は随分と新しくきれいである。
 ホームを行き来しながら高徳(こうとく)線の乗り場に向かった。行き止まり式ホームは階段の昇降がないのがいい。今日は2020年11月27日金曜日。平日の朝、徳島に向かう用務客を中心に、特急うずしお5号はまずまずの乗車率だった。高松を3分遅れの8時27分に発車した特急は陽光の下をディーゼルエンジンを唸らせ快走した。
 9時36分に到着した徳島駅は県庁所在地の駅としては小ぶりで、二面の細いホームは改札に面したホームの高松寄りに切欠き式の一番線があるため、改札から見ると二面三線のホームに見える。駅の裏は徳島城跡の丘を背景に鉄道車両の留置線が広がる。改札を抜けると駅ビルが続いていて、小ぶりなホームとの対比に目を見張る。
 ここからはローカル線の普通列車に乗る。徳島県は私鉄のない県で、路線そのものも少ない。JR四国の高徳線、鳴門(なると)線、徳島線、牟岐(むぎ)線に山間部を走る土讃(どさん)線。そして、第三セクターの阿佐海岸鉄道となる。すべて非電化路線なので電車が走っていない県でもある。モノレールや路面電車は電気で走る鉄道と解釈すると、これは日本唯一の肩書であるが、旅人にとってはこれは好ましい肩書で、実際のところ徳島県はまったりと旅をするのが楽しい地域だと感じている。
 私たちは時計回りに四国を鉄道で一周する旅程を立てていた。宿泊地は決めてあるが、そこに至るまでの列車は基本的にその場で考える。そんな旅である。
 今日は徳島から海沿いに室戸岬(むろとみさき)を回って高知に出て泊まる。室戸市内からのバスと高知までの列車は計画してあるが、そこに至る牟岐線の列車は気分で決めていく。私たちは乗ったばかりの列車を19分で降りた。降りたのは南小松島(みなみこまつじま)。港町である。
 私がトイレに行っている間、Tさんが駅前の「のぞみの泉」というオブジェの前で「日本たぬき協会」の理事長を名乗る男性から小松島のおすすめを教えてもらっていた。理事長がすすめるSL広場に向かう。小松島は阿波(あわ)のたぬき合戦の伝説の地である。公園に巨大なたぬき像があるらしい。
 住宅地を抜け、神田瀬川(かんだせがわ)に架かる橋を渡ると、左手に公園が現れる。国鉄小松島線の小松島駅跡に造られた小松島ステーションパークだ。公園の内周にはたぬきの置物が並び、園内には全長5メートル、重さ5トンの巨大たぬき像も立つ。
 駅跡には蒸気機関車C12型280号機が展示されていて、ここに鉄道があったことを今に伝える。
 小松島線は全長1・9キロという国鉄でもっとも短い路線だった。高徳線の中田(ちゅうでん)から分岐し、途中駅はなく小松島に至る。ただし、その先300メートルほどに小松島港という仮乗降場があり、列車はそこまで走っていた。小松島港は和歌山とを結ぶフェリーが発着していた港で、利用者の利便性を図って設けられていたようだ。
 広々とした公園に機関車とたぬき像の群れ。のどかな午前だ。日本一短い国鉄線に乗ってみたかったと思う。小松島線は昭和六十年三月に廃止された。

 南小松島を11時20分に出た気動車は、のんびりと郊外風景を走る。牟岐線は本数がそこそこ多い路線で、そのかわり終点まで行く列車は決して多くないが、このあたりでは途中下車の旅は容易に続けられる。次の列車も途中駅止まりで、あと一駅どこかで降りられるので、Tさんが注目した阿波中島(あわなかじま)で降りることとなった。
 11時43分、小さな無人駅に降り立つ。住宅地の中の細い道を抜けると那賀川(なかがわ)の土手に出た。川幅は割とあり、対岸の向こうに低い山並みが見える。土手に付けられた道はやがて踏切に当たり、大きく右カーブした牟岐線の線路がトラス橋で川を渡っていく光景となる。その脇に細い人道橋もあり、途中まで歩いて川を渡ってみる。鉄橋脇の作業道を歩いている気分で、ここを歩いている時に列車が来たら迫力を感じることだろう。そんなことを考えながら土手に引き返した頃、踏切の警告音が鳴り始め、徳島行きの気動車が橋を叩く大きな音を立てながら川を渡ってくるのが見えた。
 12時13分阿波中島を出た列車は終点の海部(かいふ)まで行かず牟岐行きとなっていた。先ほど眺めてきた那賀川の鉄橋をゆっくりと渡ると、風景は農村と変わっていく。牟岐線の主要駅のひとつである阿南(あなん)はそれなりに町だったが、沿線の民家はだいぶ少なくなってきた。由岐(ゆき)のあたりから線路は海岸に沿い始める。ウミガメが産卵にやってくる海岸がある日和佐(ひわさ)を過ぎ、13時20分に牟岐に着いた。
 牟岐はこじんまりとした駅舎が好ましい駅だったが、この先を往く代行バスはすぐ発車するようなので慌てて駅前広場に出る。
 牟岐から先は阿佐海岸鉄道をDMVに切り替えるための工事を開始している。DMVとはDual Mode Vehicleの略で、レール上と道路上の両方を走行できる車両であり、阿佐海岸鉄道に2021年から導入される予定となっている。簡単にいえば、バスが線路を走るような形態となる。
 これにより、牟岐から三駅先の阿波海南(あわかいなん)が牟岐線の終点となり、その先が阿佐海岸鉄道となる。その移行区間を工事するための代行バスという訳だ。
 せり立った崖が浜まで迫る海岸線を走りながら、バスは一駅ずつ立ち寄り、13時47分に牟岐線の終点海部に到着した。
 海部は高架駅で、狭いロータリーに着いたバスから降り、駅前を眺める。鉄道ファンらしき男性たちが数名降り、彼らも写真を撮りながら、高架脇に取り付けられた階段に向かった。バスは2分遅れで到着している。この先の阿佐海岸鉄道の列車の接続はよく、自然と小走りとなって上がったが、ホームに出ると列車はいない。ふと視線を先に向けると、ゆっくりと去っていく気動車が見えた。

 13時49分の列車は行ってしまった。バスを降りた鉄道ファンもほとんどが乗り遅れたようだった。時刻表を眺めると、14時21分に隣の宍喰(ししくい)行きの列車がある。それに乗って一駅先に向かうことにした。
 阿佐海岸鉄道は牟岐線の先に線路を敷き、室戸岬を回り込むように通りながら高知を目指す鉄道路線の一部として計画された歴史を持つ。沿線人口が少ない上に、国鉄の赤字によって計画が行き詰ってしまったが、平成四年(1992)に海部から甲浦(かんのうら)までの8・5キロが開業した。
 白い気動車がホームに入ってきた。廃止された宮崎県の高千穂鉄道から譲渡された車両だ。車内には沿線住民からのメッセージが書かれた短冊が飾られている。阿佐海岸鉄道は今月を持ってDMV転換工事のため休止となる。再開後はDMVに置き換わるので、この気動車は第二の活躍の場からも引退となるようだ。
 戦後建設された鉄道は、地形に従わずにトンネルなどで目的地に向かう作りとなっているものが多い。陸と海岸の境のような所を高架で敷いた線路は、集落とも農地ともつかないような起伏のゆるやかな場所にある。
 宍喰も高架上に駅がある。階段を下りると、改札前には気動車引退のカウントダウンボードが置かれてあった。節目を惜しみ、未来を見つめる光景がささやかに飾り付けられている。
 私は以前、宍喰に泊まったことがあった。海岸の前の公営宿だった。夕食後、灯りのほとんどない浜に出てみれば、空には無数の星が煌めいていた。そんな懐かしい所なのだが、空腹で早歩きになっている。私たちは駅前の城跡には寄らず、海岸にも行かず、小さな商店街に入っていく。開いている飲食店はない。かろうじて見つけた小さなスーパーでパンとビールを買った。
 宍喰駅のベンチにやってきて、私たちは祝杯を上げた。やっと食事にありつけた喜びの乾杯である。だが、飲むばかりで発車時刻となり、15時24分に宍喰を離れた。
 列車は農村を見下ろすように高架上を往く。車内の壁だけでなく窓も覆うばかりに飾られた短冊が、引退間近の気動車を激励するように揺れている。乗っているのは鉄道ファンばかりで、地元客はいない。そういう時間帯なのかもしれない。
 終点の甲浦は海岸にある集落から少し離れた駅で、高架ホームから降りるとログハウス風の駅舎があった筈だが、DMV化工事のために取り壊されていた。近くに線路と道路をつなぐスロープのような道が工事中である。接続するバスの時刻は少し先なので、どこかに座って食事をしたい。眺めると、駅から脇道を挟んでプレハブの仮設待合室があった。

    土佐くろしお鉄道

 3分遅れでやってきたバスに乗り込んだのは16時29分。駅前を出て突き当たりの山の前で左折をすると、バスは甲浦の集落に入り、海沿いを走る眺めを展開し始めた。
 集落はすぐに途切れ、家の少ない地域となった。甲浦から既に高知県となっている。平地は減り、崖が突き出た海岸線に沿って左右にカーブしていきながら、約一時間で室戸市内に入った。
 陽の落ちた室戸高校前のバス停に佇んでいる。予定では日没前に土佐くろしお鉄道に乗り終わり、18時頃に高知駅に着く筈だった。海部で列車を乗り逃したことで、宍喰、甲浦と二駅続けて一時間ずつ過ごす結果となった。阿佐海岸鉄道の沿線をのんびりと過ごせてよかったとも言えるが、室戸で夜にかかってしまったのだった。
 バス停は道路から逸れた折り返し場のような造りになっていて学校の脇にあり、コンクリート製の待合室も設けられている。ここまでの行程では寒さは感じなかったが、さすがに日が暮れると少し冷えてきた。日没後で散策する気力もなく、私たちはベンチに座って、ぼんやりと校舎を眺めている。いくつか灯りのついた教室があり、軽音楽部だろうか演奏も聞こえてくる。乗り継ぎ便である17時33分のバスがやってこない。所要時間短縮のため、室戸岬を経由せずに市内の内陸部に出てみたが、次のバスは岬から来るバスで、道が混んでいるのかもしれない。
 8分遅れでやってきたバスは室戸市内を快走し、2分遅れまで回復して18時18分に第三セクターの土佐くろしお鉄道の奈半利(なはり)駅に着いた。これで奈半利18時31分発の後免(ごめん)行き列車に乗れる。これに乗ると後免で土讃線に乗り換えて20時ちょうどに高知駅に着くことができる。
 奈半利は高架駅で、改札前にはレストランがある。駅前は港で、駅を観光スポットとして位置付けているようだった。
 改札を抜けるとそのままホームで、後免行きの気動車が待っていた。阿佐海岸鉄道の駅や車内にいた鉄道ファンはすでに各方面に離散している。甲浦から海部方面に折り返した者。甲浦からバスに乗った者。そのバスのルートも岬経由と内陸経由があり、奈半利で散策する人もいることだろう。
 奈半利から後免までのこの路線は「ごめん・なはり線」という線名が付いている。沿線には安芸(あき)という港町があり、そこが沿線の中心地で、私は以前泊まったことがある。雰囲気のある地なのだが、今日はもはや早く高知に着いて安心したいという心境である。
 車両はきれいで、座席の背ずりが妙に高い作りだが、クッションの効きもよく座り心地はよい。各駅停車向けにしてはしっかりとした座席だから、料金百円くらい徴取しても文句のない内装だ。車窓が夜の世界なので内装に関心が向かっている。
 ごめん・なはり線はトロッコ列車のような開放型座席の車両もあり、各駅ごとにキャラクターがあったり、会社の力の入れ方が前向きだ。元々は阿佐海岸鉄道である阿佐東線と結ばれる計画だった。幻の鉄道ルートを辿ってきた今日の道中を思い返しながら、DMVが走り始めたら再訪したいと思う私たちである。

 高知の朝は好天に恵まれ、駅前の観光案内所で買ったとさでん交通の路面電車一日乗車券で市内観光をしながら全路線を乗ってきた。
 一日乗車券は千円もするのだが、つまり、とさでん交通の路線は距離が長い。高知の繁華街であるはりまや橋を中心に、伊野線11・2キロ、後免線10・9キロ、桟橋線3・2キロとある。私たちは高知駅前から桟橋線の電車に乗って旅を開始して、伊野線、後免線の順に乗ってきた。路面電車は時間がかかるので、伊野から後免まではJRで移動した。
 観光もしながらだったから、高知駅前に帰ってきた時は二時半を回っていた。今日はこれから土讃線で西進して窪川(くぼかわ)に行き、土佐くろしお鉄道中村線・宿毛(すくも)線に乗り、中村に泊まる予定だ。陽が出ているうちに宿毛に着くには、高知を13時49分に出る特急あしずり5号に乗り、15時31分に着く中村で宿毛行きに乗り換えて16時07分宿毛というコースになる。乗るべき列車は行ってしまった。
 時刻表を眺めてみる。伊野から後免に向かう途中、高知駅の売店で昼食を買うついでに、JR四国のポケット時刻表を買っていた。高知から先は本数が少なく、次は15時43分の特急あしずり7号だった。
 旅というものは思い通りにいかないことが多い。理由は様々だ。昨日の代行バスの遅れのように他責のこともあれば、高知でのんびりし過ぎた今のように自責もある。だから旅は人生に似ているのだという人もいるが、そう大袈裟に捉えたくもない。嘆いていても仕方がないので、カフェに入ってコーヒーを飲む。
 あしずり7号は特急だが二両編成だった。私たちが携行しているフリーきっぷは特急の自由席に乗れる。自由席は二号車だった。車内はさして混んでいない。進行方向左手に太平洋が見える区間だから左側の席に座る。
 晩秋の土佐路はすでに太陽が傾き始めていた。先ほど路面電車の車内からも見えていた北側の山々が西日を受けている。伊野を過ぎると車窓は山間となり、小さな駅が続く。
 線路は大きくカーブしながら須崎(すさき)の町に入ってきた。須崎は好きな町だ。港があり、浜があり、古びた商店街がある。泊まったこともあり、その時は寿司を食べた。
 昨夜は高知のはりまや橋にある居酒屋で日本酒を飲みながらカツオのたたきを食べた。須崎とその周辺はカツオ漁の本場といえる地域である。黄昏の西日に染まる漁港町を眺めていると降りたくなってくるが、今夜泊まる中村は私にとって初めて泊まる町で楽しみだ。四国が初めてのTさんにも楽しんでもらえそうな渋い町の予感がある。そして、何よりもこの先に待っている第三セクター鉄道線に乗りたい。
 窪川で土讃線は終わり、いよいよ土佐くろしお鉄道中村線に乗り入れる。昨日乗ったごめん・なはり線と同じ土佐くろしお鉄道の路線だが、開業時期が異なるので駅や車両のデザインが異なる。中村線は国鉄の赤字ローカル線を引き継いだ路線だった。
空はだいぶ陽が傾き、夜が近づいてきた。川奥信号場でJRの予土(よど)線が分岐する。予土線は清流四万十川(しまんとがわ)に沿って走るローカル線で、こちらは明日乗る予定である。
 山中の駅だった窪川から車窓は少しずつ海に近づき、土佐佐賀付近からは海岸に沿う眺めとなった。海の上の空は太陽の残像で明るさを微かに残し、青色が幾重の層を作って広がり、そこに紺色の雲を浮かべている。その下に磯の黒い岩が荒々しく姿を並べてグレーの海を見つめている。この世の果てのような幻想的な空だ。この時刻にここを通過したからこそ見ることができた風景だった。

 中村駅での接続はよかった。7分の接続で普通列車の宿毛行きが発車する。車両は単行の気動車で、側面がピンクにラッピングされていて、宿毛市のマスコットキャラクター「はなちゃん」という少女が笑っている。すっかり空は夜となった。車内は帰宅の人々を乗せて、半分くらいの席が塞がっていた。
 中村線は昭和三十八年(1963)に窪川~土佐佐賀が開業し、七年後に中村まで開通した。その先の宿毛までは完成が遅れ、国鉄時代に建設が凍結したのち、土佐くろしお鉄道によって平成九年(1997)に宿毛線は開業した。そういう紆余曲折のあった路線で完成が新しいから、堂々とした造りの高架上を走るローカル線となっている。
 沿線は山麓の農地といった風景らしい。窓に顔を近づけると、うっすらと景色が見えるのだ。畑が広がる中にひっそりと佇む無人駅が現れる。家の灯りは少ないが、乗客が降りて畑の脇の暗い農道に向かっていく。中村に勤めている人たちなのだろう。どんな仕事をしているのか。そんなことをふと思う。
 中村を出て、ちょうど30分で宿毛に着いた。対向式ホームが二面ある高架駅だ。折り返し時間は10分しかない。急いで改札を出て、駅前を軽く眺め、駅構内をざっと見て回る。通路にパネル展示がされている。国鉄中村線開業の時の写真であった。中村駅開業五十周年記念の展示だ。当時と今では地方に於ける鉄道の存在感は大きく変化したことだろう。変わらないものがあるとすれば何だろうか。自然、名産、道。
 宿毛を出た上り列車はとても空いていた。エンジン音と車内放送だけが響く車内で、静かすぎる窓外を見つめている。
 18時45分、中村に戻ってきた。列車から降りるとひんやりとした冷気を感じる。駅舎は少し小ぶりで、駅前広場は少し大きい。そこから延びる道は既に灯りが乏しい。
 中村は室町時代の応仁の乱で京の都を離れた一条教房(いちじょうのりふさ)が築いた町である。都の五摂家のひとつであった一条家は土佐に荘園を持っていた。その縁もあって中村に移り住んだ。一条教房は京を偲んで、中村を流れる二つの川(四万十川と後川)を桂川と鴨川に見立て、碁盤の目の筋を持つ町を築いた。
 昭和二十一年(1946)の地震で土佐一条家の築いた町並みを偲ばせる建物の多くはなくなってしまったようだけれど、歩いてみるとなかなかに風情のある町だった。
 予約した民宿に荷物を置き、私たちは夜の中村をあてなく彷徨った。細い国道にも狭い脇道にも店が点在し、居酒屋の姿をよく見かける。人口は決して多くはないから市街の規模は小さいが、その割には飲食店が多い。短いながらもアーケードもあった。
 中村の地酒銘柄を看板に掲げた店があったので入ってみた。店内は外観より広く明るかった。ビールで乾杯して、サワラのおひたしのお通しや貝の醤油焼きを食したあと、中村の吟醸酒で土佐清水の清水サバと四万十川の鮎の塩焼きを食べ比べ、はらんぼというカツオの腹のたたきを食べた。
 高い建物の少ない町並みをのんびりと歩きながら宿に帰る。酒と肴が美味であったことをTさんと振り返りながら夜空を眺める。夜の町で飲食して散策をするには、小さい町の方がいい。そんな気分を噛み締めている。昨日から乗り継ぎが思うようにいかない旅になっているが、本数が少なく不便なローカル線であるほど、そこにある町や村は魅力的であるような気がしている。

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