平成旅情列車① 駅回想~岩泉~

     山奥を走るローカル線

 岩泉線という朝夕にしか列車が走らない超過疎ローカル線が平成の時代にあった。もっといえば21世紀になっても存在していた。場所は岩手県だ。
 その岩泉線には一度だけ乗ったことがある。週末を一泊二日で旅ができるフリー切符がかつてJR東日本に存在していて、その切符を使って三陸を旅した時の話だ。
 この時の旅は、山形新幹線で山形に行き、山形~仙台~盛岡と乗り継いで盛岡から山田線に乗った。山田線は北上山地を横切って三陸沿岸に出るローカル線で、こちらも岩泉線ほどではないが過疎ローカル線だ。国会で建設の是非を話し合った際に、反対者が「総理はこんな山奥に鉄道を作って、猿でも乗せるつもりですか」と質問したという逸話があるほどだ。
 山奥を走る山田線の列車の車窓は秋深し、すでに冬の訪れを思わせる枯れた眺めだった。今から二十年以上前の十一月のことである。

     岩泉駅

 15時30分、山田線の列車は茂市(もいち)駅に着いた。北上山地のほぼ無人地帯の車窓を見てきたあとだけに、駅のまわりに少し集落があるだけでも開けて見える。
 狭い跨線橋を渡り、駅舎に隣接したホームに出ると白に赤いラインの入った気動車が一両で停まっていた。キハ52という国鉄時代の車両で、山田線の車両より古い。これから乗る岩泉線はJR東日本でもっとも乗客の少ない路線である。そんな予備知識で車内に入ってみると、予想より乗客は多かった。二十人近くいるだろうか。もっとも、その人たちのほとんどが手にカメラを抱えている。
 夕方の太陽は、周辺に高くそびえる山に隠れ、15時32分に発車した岩泉線の車窓は、既に暗闇への入口にさしかかっているような空の下に広がる山間に向かっていった。
 山田線より更に深い山に形成された谷に入っていった岩泉行き列車は、谷の中腹にひっそりと延びている線路上をゆっくりと走る。駅に着いても周辺の集落の軒は少ない。やがて森の中に吸い込まれていった気動車は、押角(おしかど)という屋根のない小さなホームがあるだけの駅に停まった。辺りは木が鬱蒼と茂り、人の気配はない。気動車のエンジン音がやけに響く。
 人の出入りがない列車は、ひたすら深い谷を走っていき、その谷が少し開けた所が岩泉だった。16時20分、くたびれた内装に遠方からやってきた客ばかりを乗せた列車は、片面だけの簡素なホームに腰を落ち着けるように停車した。

 終点の岩泉駅は駅前広場よりも一段高い所にホームがあり、ホームに設けられた出入口の近くにだけ屋根が架かっている簡素な駅だった。駅舎のようなものはないが、駅前広場のロータリーが駅の規模に釣り合わないほど広い。ただし、停まっているバスもタクシーもいない。到着客を迎えに来ている自家用車もいない。
 車内にいた人のほとんどはホーム上で写真を撮っていたが、私は日の暮れてきた岩泉駅前を歩き出した。駅を出てすぐ小川を渡る。周辺は山に囲まれていて沿道は原野とも農地ともつかない原っぱだが、道の先だけが明るい。歩いているうちに、すっかり夜になってしまった。
 無人地帯を歩いているのだが、私の前には列車に乗っていたのだろうと思われるおじいさんとお孫さんが手を繋いで歩いている。この先に見える灯りが岩泉の町なのだろう。
 旅行者ばかりの車内だった過疎路線の岩泉線にも、この鉄道を足としている人が存在していたのだ。そんな日常の風景に導かれるように、私は二人の後ろを歩きながら岩泉の町に向かう。やがて街灯に包まれる道になり、建物が道の両脇に並び始めた。

 駅に戻ってきたが、折り返しの発車時刻17時20分までは少しあるので、駅をもう少し眺めてみた。十一月の夜の風が冷気を乗せて吹いてくる。駅前広場に立って駅を眺めると、ロータリーを見渡すように鉄筋の建物が立っていて、そこが待合室であることに気づいた。
 中に入ってみると室内は結構広く、二十人くらいは余裕で着席待機できそうである。この待合室は鉄道のものではなく、路線バスの待合室であるようで、室内に掲げられている案内板は路線バスのものだった。
 ベンチの並ぶ空間の真ん中にストーブが置かれ、バスを待つおばあさんが一人座っていた。私も列車の発車する時刻まで、物音のしないこの場所で過ごすことにした。

(岩泉線は2014年4月 廃止)

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