七尾旅人とこじらせた思春期

今日は七尾旅人さんのサーカスという曲を初めて聴いてみた。というのも私は今年、一日に三曲新しい音楽を聴くという日課を設定し、今日の分として聴いた音楽の中にサーカスがあった。
始め、あぁ聴いたことある系ね、と思った。近年流行っているシティポップの潮流に乗ったいちアーティストか、と。これは私の悪い癖である。良くも悪くも癖が強い曲しか聴く気が起きなかった。少しでも量産型の香りを感じるとすぐ馬鹿にして、量産型のラベルを貼り付け興味をなくす。とにかく奇抜で唯一無二みたいなものこそよいのだと信じていた。だからこの曲についても同じく、流行りのエモエモシティポップね〜はい量産型乙〜とは言わないまでもそれに近い姿勢で聴いていた。
でもよく考えたら、量産型の何が悪くて、奇抜なものの何が良いんだっけか。そのことをまじめに考えてこなかったことに気付いた。そしてそれは音楽に関してだけではなくて、服とか娯楽とか色んなものに関して、自分が良しとしてきた唯一無二なもの、個性的なものの良さの根拠が希薄だったことの自覚でもあった。
私は思春期拗らせまくっていたので、アイデンティティ確立の方向性が歪んでいて、自分が自分であるために誰とも同じでありたくない、マイノリティでありたい、奇抜でありたい、みたいな、個性的であろうとした凡庸な人間が悲しいかな同じ捻くれ方をして収束していった先にあるもう一つの量産型になっている。私だって正直量産型の良さ、邦ロックプチプラ丁寧な生活の良さは理解できて、それに身を任せて自分に正直にいられればこんな悲しきモンスターとして爆誕することもなかった。私はどうして自分や、自分を構成する文化が凡庸であることを許せなかったんだろう、もしくは今も許せないんだろう。
サーカスという歌が何を歌っていたのか覚えてないけど、この曲は私にアイデンティティの歪みを自覚、自省させてくれた。サーカスは素直に聴いたらすごく耳に心地よくて、量産型だと思ったサウンドの中にも遊び心が見えて、無個性で退屈に感じた七尾さんの声も、だからこそ抵抗なく脳に言葉の響きを浸透させるのだと気付いた。無個性に見えるものの中に個性を見出すことこそ、良き文化鑑賞の姿勢なのかもしれないと思った。
自分の感性に素直になりたい。そうでなくては自分の本当の個性にも素直になれないだろうから。このことを忘れずに毎日三曲ずつ新しい音楽に触れていった先に、きっと悲しきアイデンティティモンスターの墓標を立てようね。
今夜は以上。良い夜を。

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