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シーク教に学ぶ、「食」のあるべき姿

2023.06.01 タイ・バンコク編

先発組の3人と合流して、チーム5人での、初めての朝ごはん。宿のある大通りを挟んだ向こう側を少し進むと、今度はリトルインディアの街並みが広がっている。香りも同じく、少しずつインドらしさを帯びてきた。

目的地は、シーク教寺院。

目的は、朝ごはんを食べること。

シーク教は世界でも珍しく多元主義的な思想を持ち合わせていて、いかなる宗教、階層、人種、職業、地位、年齢、性別など、全てが平等であるという教養のもとにあるそう。

そしてその教養のもと実践されている代表的な行いが、「グル・カ・ラングル」という無料食堂。アムリトサルにあるシーク教の総本山・黄金寺院にて、5000人を収容できる巨大食堂で1日約10万人分の食事が、なんと無料で、提供されている。しかも、約300人のボランティアによって。

代表的なのは「グル・カ・ラングル」だが、その限りではなく、全ての寺院にて、無料で食事が提供されている。

僕らは興味本位に従って、ありがたく恩恵を受けることにした。

裸足になり、ターバンを巻き、手を洗って清める。そして、プレートを受け取って、好きなものを好きなだけよそう。とてもシンプルな仕組みで、何かに従ったり、こちらが支払うべきものは何もない。

最も印象的だったのは、全ての料理が手作りだということ。

暖かくて、新鮮で、滋味深く、優しい。

味覚の、その奥にある感覚で受け取る美味しさ。
黄色い豆のカレーの味わいは心に余裕をもたらし、タイへの恐怖感、嫌悪感が少し和らいだ気がした。もっと言うと、昼ご飯には、どんな食べ物に出会えるのかワクワクしてさえいた。

食の本質とは何か。食がもたらす、豊かさの本質とは何か。食の持つ、可能性とは何か。
いくつかの問いが、僕の脳内に訴えかけてくる。

少なくとも、僕が育ってきた日本では、便利なものを求めるがあまり、食を構成する要素はとても複雑化していて、本来どうあるべきか、という問いに目を向けることさえ難しくなっている。それが、ある種の、文化になりつつあるのかもしれない。

食材をつくる人、料理をつくるひと、そして、食べるひと。これで食は成り立つはず。

人々が食に何を求めるのか、それは置かれる状況によって変わるけれど、少なくとも今の僕は、求めすぎているのだと思う。だからこそ旅の中で、たくさんの人に出会って、それぞれにとっての「食」の本質に目を向けたい。また、世界の人々にとって、「食」という体験は何をもたらしているのか。

多くを目にして、多くを体感したうえで、少しずつ自分の答えに近づいていけたらいいなと思う。

「食」の本質はお金のやり取りではないんだよ、という当たり前だけど、とても重要なことを、シーク教の教えによって再認識することができた1日だった。

続く。
※シーク教について以下記事を参照。

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