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美観(一)

→→感傷は人を阿呆にする。

しばらくの帰省で自分を知るには、遅すぎることはなかったろう。何よりも自分が恐れていたのは、当時に感じた言い知れぬ感慨がもはや微々たる情動も起こさぬ事実に成り果てているやもしれないことであった。
ものを知らないということは、ある種の幸福を含んでいる。知るということには可塑性はないために一度知ったなら、その瞬間を頂点として同じ事柄への感動は小さくなるからである。

俺は知っている。
「愛されたい。」とこぼす口は誰にも愛を与えてなどいないことを。
けれど同時に、愛は何もないところに生まれたりしないことも知っている。


←←朝の太陽より夕方の日差しの方が私には暖かい。

大抵は血が愛をもたらすのだよ。確かに愛は何もないところには生まれない。肉親の慈しみや虐待を受けることなどが人を愛することを教えるのである。
君は生家に帰っていたようだね。君の家について多くは知らない。君は知ろうと安易にすることの傲慢さや不幸を理解しているようだから、僕もわざわざ聞いたりはしない。
ただ罪悪感情に支配されたままでは将来を望めないだろう。
君の目は(君自身そのことに無自覚であろうが)、とても澄んでいる。その目は人を苦しめる目だ。苦しめるというのは苦しめられることでもある。



→→静寂が一番うるさい。

何か言ってくれる方が楽なことがある。会話があれば、解釈の余地が減るから簡単だ。テキストがないということが僕にとっては一番辛い。数週間も前の表情を思い出して、後悔ばかり感じる。
死への憧れはいつになく増すばかりで、ただ先生の言うように罪悪感情からくるものかは分からないが、親の死は予想外に俺を痛めつけている。
久しく会っていなかったとしても、心の雑音であった存在がいなくなった。けれども、今は無音の方が心を占めている。



←←春雷を待っている。

君は外を歩いた方が良い。時が心の痛みを希釈するといった主張があるが、何もせず籠ることはむしろ問題を大きくする。気を紛らわすのではない。春雷の頃、外は意外に肌寒い。この温度がいい。信号機を見よ。自分の関与しないところで動くものがあると安心するのではないか。ともかく、心拍数を上げること、視線を止めないことが大切で、時間というのは勝手に過ぎるから気にするものではない。だってそうだろう、椅子に座って時計を見つめていても何も変わらない。


→→卵は放っておけば孵る。

自分以上に自分の内面を理解してやることができる者はいない。先生は俺を壊れもののように感じている。知り合いが一人減ると夢見が悪いから、なんとかしたいのだろう。ただ何故、先生の夢見の良さに俺が貢献しなければならないのか。放っておいても俺はどうにかなるだろう。先生の美観には大方、共感を感じているが時に異和感を得る。我々は生物であるのに死に条件付けをしがちだ。行き着くところが、どんな理由があれ死はよくないものだというくだらない思想、そしてこれが俺を苦しめる。先生も口には出さないが自死へ嫌悪を感じていることは見ていればわかる。やめてくれたまえ、先生には関係がないのだから。


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