主観を客観世界にいれるという厄介な話 【ネーゲル 『どこでもないところからの眺め』, ALife Book Club 5-3】

こんにちは! Alternative Machineの小島です。

今週も引き続きネーゲルの『どこでもないところからの眺め』です。
「主観をどう客観的な世界に位置づけるか」という一番厄介なところをお話していきます。
(今回はかなり不安なので、有識者のかたは間違ってたらおしえてください、、、)

ネーゲル『どこでもないところからの眺め』も三回目になりました。

みんなが理解できるものに至るには、主観から客観に行くしかありません。でもその上で、主観を理解したいとなるとどうしようもないというのが前回までの話でした。

ぼくはふだんは、物理法則で記述できるものだけが世界に実在していてそれでぜんぶ基礎づけられる、そして、それで無理なものはあきらめるしかない、という立ち位置です。

でも、そんな生ぬるいことを許してくれないネーゲルがどう考えを進めていくのか紹介していこうと思います。

ネーゲルの三段階アプローチ

まずは、おおざっぱにネーゲルのアプローチを概観してみます。
その該当箇所を(前回もちょっとお見せしましたが)引用します。

世界は客観的に理解できる側面、つまり、特定の意識ある存在やその種類に依存しない立場から理解できる面をもつ。それでは、意識ある存在は、いったいどのようにこの世界に組み込まれるのだろうか。この問は三つの問に分けられる。まず、頭の中で起きていることは、それ自体客観的なのか。次に、客観的だとふつう信じられている現実の物理的側面と、この頭のなかの出来事とはどのように関係しているのか。最後に、世界にいる多くの人々のなかにこのわたしが入っているということが、どうして可能なのか、という問だ。

ネーゲル『どこでもないところからの眺め』(春秋社)

ネーゲルのアプローチは、おおまかに三段階で構成されています。

まずやるのは、「頭の中で起きていることは、それ自体客観的なのか」です。
これは、人の主観というものを客観的に見ることは可能なのか、そして可能ならそれはどんなありかたになるのか、ということです。

二番目は、「物理的側面と、頭の中の出来事の関係」です。
頭の中の出来事を客観的に位置づけられたとしたとき、それが物理法則に則った客観世界とどう関係しうるのか、という問題です。
これは、いわゆる心身問題に対応します。

そして三番目は、「世界のなかにこのわたしが入っていることがどう可能なのか」です。
主観からスタートすれば、当然そこに「わたし」がいることは前提です。ところが客観的に全てを見ていくと、そのフラットな世界観のなかで「わたし」という特殊なものが存在するということには逆に説明が必要となってきます。

今回は、これらのうち1つ目と2つ目についてお話します。

頭の中で起きていることをどう客観化するか

まず、問題設定を再確認しておきましょう。
目指すべき客観的世界の典型例は、物理的な世界です。これは、物理法則という誰でも(原理的には)扱える言葉で書かれていて、特定の人の見方によらず記述できます

つまり、この理想的な客観的描像には、どこから見ているかということが入ってきません。この本の『どこでもないところからの眺め』("The View from Nowhere")というのはまさにこのことを指しています

でも、こうなるとこの世界のどこにも「誰かのものの見方」が入っていません

日常的な感覚だと、世界を見ている自分がいるし、他の人も(その人の頭の中で)同じように世界を見ているプロセスがあると想定しているはずです。しかし、この当たり前のものの見方が、さきほどの客観世界では許されないのです。

客観世界に(ちょっと)主観的なものを残す

ネーゲルはこの常識的な感覚を客観的な描像と両立させることを企てます。

そこでネーゲルが提案するのは、客観世界だけれど、一人ひとりの頭の中で主観的なものの見方が存在している、という見方です。

客観世界では「主観的な見方」を排除していたけれど、これがそれぞれの頭の中に実在していると思っても、そんなに不具合がないはず、というのです。

ただし、各個人にとって直接把握できるのは自分のものの見方だけです。よって、
これを客観化するためには、自分の主観がこの世界に無数に存在している現象(いろんな他者の主観)の一例にすぎない、とみなせるかどうかにかかっています。

ネーゲルはここをかなり注意深く議論しているので、この考え方に納得できない方はぜひ本書を直接お読みください。

結論的には、自分に関しては内部的なものの見方と、それを外から見る見方が共存しているので、そこから他の主観のあり方についても拡張して考えることが原理的にはできるはず、よって、客観世界に主観的なものを配置してもいいというのがネーゲルの考えです。

だからといって他者のあり方を完全に把握できると言っているわけではありません。
変な例ですが、たとえば「ゴキブリの味覚についての緻密な客観的現象論を展開したところで、ゴキブリにとってのスクランブルエッグの味は正確にはわからない」とネーゲルは書いています。
だから、このアプローチの延長線上に前回取り上げた「コウモリであるということ」の完全な理解があるとは想定できません。

それでも、最初の客観世界に主観が一切入っていなかったことを考えれば十分な収穫といっていいでしょう。

物理世界とどう対応するか?

というわけで、(ネーゲルの議論を認めるなら)ある程度主観的なものを客観世界に配置してもいいということになりました。

では、これは物理的な世界観とどう両立するのでしょうか?
物理的な見方では、すべてのものは物理法則にもとづいた物質の振る舞いだけで説明できるはずです。

主観的なプロセスは頭の中で起きている以上、これも物理的な説明(「物理的還元」)ができることになってしまいそうです。(物理主義的な僕は基本的にこの立場です。)

でも、前回までに見てきたように、それはもはや客観的(物理的)なものであって、問題としていた主観的な性質を失ってしまいます

これに対する一つの考え方は、二元論、すなわち物質的なものでは説明できない「魂」のようなものがあると想定することです。ネーゲルはこの立場をとりません。「魂」を導入したとして、ではなんでそれが主観的なものを担えるのかという説明があらたに必要になるだけだから、というのがその理由です。

そのかわりにネーゲルが取るのは、二面論です。
日本語にすると語感がそっくりですが、言っていることは真逆で、主観的な性質と、物理的な性質は同じものの別の見方(別の面)であるとして扱えるという考えです。

じゃあ、それが具体的にどうやって実現されているのかが問題となりますが、そこまではネーゲルは答えを出していません。

ただし、この主観的なものを担っているのは脳であるはずとしていて、しかし単なる物理的還元ではたどりつけない性質だろうとされています。

個人的にはここの「物理的還元」というところが肝で、なんとなく創発的なものを物理的性質として認めていないところがネーゲルにはありそうに見えます。

痛みの感覚と生理学的に記述される脳の状態との間に必然的な関係があるとしても、それを直接見てとることはできない。これは、体積を固定した場合の気温の上昇と気圧との必然的な関係を直接見て取ることができないのと同じだ。気温と気圧との関係の場合、その必然性は、分子を記述するレベルまで達してはっきりする。それまでは偶然の相関にしか思われない。

ネーゲル『どこでもないところからの眺め』(春秋社)

つまり、気体分子のレベルから説明するというのがネーゲルの「物理的還元」のイメージのように思われます。一方で、熱力学は必ずしもこのミクロな振る舞いによって基礎づけられていない理論です。
そういう中間層的な記述であればネーゲルは認めるのかどうか、気になるところです。
(その意味で、意識の統合情報理論(IIT)はネーゲルと近いところがあります。実際、こんな論文もでています。)

ちなみに、この部分のネーゲルの議論は「自己の同一性」(自己をほかのものに移せるかどうか)から始まっていて面白いです。ぜひ直接読んでみてください。

以前紹介したヴァレラだと、この問題からむしろ自己はないという結論に導かれていくところも興味深いです。

次回予告:どこでもない世界で「わたし」を探す

いかがだったでしょうか?今回もややこしい話ですみませんでした、、、

次回(たぶん最終回)は、3つ目のステップである客観世界のなかでの「わたし」の立ち位置の話、そして実は本書の殆どを占めている倫理の話をしようと思います。

ぜひとも来週もご覧ください!!!

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