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色は匂へど疑へり

仕事の休憩時間にロッカーを開けると、所属する職能団体の広報誌が配布されていた。近くのゴミ箱を覗いてみれば、既に同じものが何枚も放り込まれている。ほとんど誰も読んじゃいないのに、毎月これを作り、印刷し、届け続けているひとが存在する。

わたしも、いつもならろくすっぽ読まずに捨ててしまうのだが、その日は何気なくぱらぱらと頁を捲ってみる。労働環境改善の呼びかけ、組合の活動報告、研修案内、お偉方のコラム。とても息抜きになるようなラインナップではないが、はなから期待もしていない。感情の動かないままに冊子を閉じたところで、裏表紙のポップなイラストに目が留まった。明朝体の並ぶなか、ファンシーな字体で書かれたタイトルは『今月の運勢』。星座占いだ。

視線でたどると、下から3番目に自分の星座を見つける。仕事運はまずまず、恋愛は小休止、考えすぎに注意、無駄な出費があるかも、ラッキーカラーは黄色。どちらかというと芳しくないお告げだが、もとより占いの類は自分の都合のいいことしか信じないたちなので構わない。ありがたく一通り目を通した後、申し訳ないがやはりゴミ箱の仲間たちに加わってもらう。



休憩を少し早めに上がって仕事に戻る。体育会系の職場でPCをまともに触れる人間が少ないので、ルーティン外の雑務の御鉢がよく回ってくるのだ。書類を作って印刷し、文章にラインマーカーで色をつけていく。いつものピンクを手に取り、ふと『ラッキーカラーは黄色』が頭をよぎって、オレンジがかった黄色に持ち替えた。



「で、この茶色い線の引いてあるのが、別枠ってことでいいの」

資料の確認を依頼した50代の男性上司が、文字の上に載ったわたしの『ラッキーカラー』を指さして、言った。
「茶色。あ、はい。一応、色分けしてます」
「ふーん、了解。あっちのファイルに入れといて」
ありがとうの一言もないのには慣れている。それよりも、わたしが『黄色』だと思っていた色が、彼の目には『茶色』に映っているということに驚いた。念のため、ポケットからさっき使ったラインマーカーを取り出し、『イエロー』と書かれていることを確認する。



色知覚能には個人差がある。これが平均と大きくかけ離れていると『色弱』『色盲』などと呼ばれるわけだが、そういったラベルをつけるほどではない微妙な感覚の差は、おそらく誰しもに存在する。わたしが『黄色』だと思っている色が、他の人の『黄色』と一致しているとは限らない。レモンを、キリンを、信号機の真ん中を、銀杏並木を、みんなが『黄色』と呼んでいるから、きっとあの色が『黄色』なんだな、と後付けで認識しているだけだ。『黄色』に危機感を惹起させられる、というのも、本能のようでいて後天的な事象なのかもしれない。


同じことは、色知覚以外の感覚にもいえる。日本人の子供が『くすぐったい』という単語を学習する時、『恥ずかしい』と混乱することがある、という話を聞いたことがある。例えば、人前で褒められたときの『恥ずかしい』は『くすぐったい』気持ちとも言い換えられるが、自分がなにか恥をかいたときの『恥ずかしい』は『くすぐったい』とは全く異なる感情だ。皮膚の過敏な部位に触れられたときの『くすぐったい』は『恥ずかしい』とは違うが、実はこの『くすぐったい』からだの感覚にも相手との心理的な距離が作用している。同じ部位を同じように触られても、相手が見ず知らずの人間だった場合はただ不快なだけで『くすぐったい』にはならない。親密度と間合いのミスマッチから生まれる『恥ずかしい』という感情と混同するのも無理はないように思う。


そういえば、わたしも子どものころ『しびれる』感覚を覚えるのに時間がかかった記憶があるし、今でも自分の『しびれる』が他の人ときちんと一致している自信がない。


色や感情といった、他の表現で説明するのが難しいニュアンスのことばを正しい意味で理解できていると、いったい誰が証明できるのだろう。


それでは、ラッキーカラーとはなんだ。あなたの『黄色』とわたしの『黄色』が同じであるかを確証づけるものがなにもないのに、『黄色』が運命に影響を及ぼす、とはどういうことか。誰かには『茶色』に見える色であっても、それはわたしに幸せをもたらすのか。

幸せとはなんだ。わたしが『幸せ』だと思っているものは、みんなの『幸せ』の定義と一致しているのだろうか。『幸せ』がいいことだと、言い切れるのだろうか。

いいこととは、いったいなんだ。


また、世界のすべてが疑いの底に沈んでいく。めんどくさがりのくせに、めんどくさいことばかりを考えて、ひとりでにめんどくさくなる。


考えすぎに注意。

占いの一文が脳裏をよぎる。汎用性が高い助言とはいえ、わたしには誂え向きだ。
無碍にしていたあの広報誌だって、ぐらぐらと不安定なことばという大海のなかから、だれかが時間をかけて拾いあげたものでできている。もしかしたらわたしの目に映らない、侮りがたいちからを持っているのかもしれなかった。


***


先日、作文の練習に、と文字書く人にもらったキーワード『占い』『くすぐったい』。やっぱり、自分から出ないことばで書くのはむずかしいや。でも楽しかった。よかったら次もどなたか、ぽんぽんとお題を投げいれてってください。

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