見出し画像

猫視点小説『アストリッド・アストリッド(人語版)』④

 「第二皇子」「艦隊」この二語を聞き終わらぬうちに、酒場の人間たちは悲鳴を上げ、出口に殺到した。
 チルとピピトも立ち上がり後に続こうとした。だが銀髪の老人が、我関せずとばかりに酒をあおり続け、逃げ出す素振りを見せないので「爺さん、逃げないと」と腕を取り、立ち上がらせようと奮闘する。
 老人は口端を歪めて「心配するな」と笑う。銀の髭が差す陽を浴びて、透けて光る。「爺さん!ここは戦場になる!第二皇子の兵が上陸して来る!逃げないと――」老人の樹の皮のような浅黒い腕を強く掴むと、予想外に金属のような固い感触が返って来て、ピピトが戸惑う。老人は笑みを絶やさず「アシュガがいる」と言って、机に伏してしまった。二人は諦めて、酒場を出る。

 大勢が駆けている。砦兵が叫んでいる「北の砦に行け」。
「どうしよう……」
 チルがピピトの腕にしがみつく。
「『アシュガいる』……どういう意味だと思う?」
 老人の言葉を反芻するピピト。若い二人は知らないが、ワタシは知っている。「今はただ、銀髪の老人を見習って、静かに待つのが最善だ」でもワタシの言葉は二人の耳には届かない。やきもきする。二人が、濁流のような群衆の流れに飛び込んで、要らぬ怪我を負うのではないか――杞憂だった。

「アシュガ様だ」
「第七皇女のアシュガ様だ」
「嗚呼!アシュガ様だ!」

 群衆の流れが穏やかになり、静止する。チルとピピトの前で白馬が立ち止まる。
「アシュガ様」
「ピピト、チル。ここは危険だから、北の砦へ」
 静かで強い口調。二人は大きく頷き、北へ向かう。ワタシはアシュガの馬に付いて行く。
 坂の下に港が見える。その向こう、流砂に浮かぶ黒い船が何艘か迫って来るのが見える。いや、正確に記そう。五艘だ。
 白馬が港に着く。船が更に迫る。軍艦だ。旗を掲げている。赤地に黒い掌の紋章。最初の一艘が接岸した。ぞろぞろと兵が降りて来る。赤く染められた兵装。声が響く。

「皇国第十八船団、船団長のコピアポアだ。第七皇女アシュガは、いるか?」
 アシュガが白馬から降りる。島の砦兵が周りを固めようとするが、手で払う。
「ここにいる」
 黒皮の兵装から露見する白い肌、腰まで伸びた髪も白、尖った耳が飛び出ている。閉じられた瞼。すらりと細く長い体躯。白い杖で地面を小突き、足場を確かながら歩を進める。
「アシュガか?」
「如何にも」
「皇帝陛下は、庶民が安寧に暮らせる世を望んでいる。その為には、世を乱す不届きな皇子皇女共を成敗する必要が――ええい、止めだ。俺は弁が立たぬ。単刀直入に言おう、魔剣を差し出せ」
「魔剣?」
「知らぬとは言わせぬぞ」
「知らぬとは言わぬ」
「有るな?この島に」
「無い」
 その返答を聞き、コピアポアと名乗った男が深いため息を吐く。アシュガとは対照的に、赤い兵装から色黒い肌を覗かせ、背が低く、腕が異様に太い。切れ長の眼、禿頭に刺青、腕にも刺青――いや、腕に有るのは刺青ではなく、掌の形の痣だ。剣は帯びていない。いや、ごく短い剣――短刀と呼ぶのも憚られる程の短い剣を腰のベルトに差している。
「魔剣が無いというのなら、この島には俺に敵う兵力が無いということだ。つまりどういうことか?簡単に皆殺しにできる。いや、実際にそうする。そして、お前が言ったことが真実かどうかじっくりと確かめる。もしも魔剣が有るのなら――」
「有るのなら?」
「俺は弁が立たぬと言っただろ?手間を掛けさせるな。抜け!」
 アシュガが、腕の包帯を解く、白い肌に、黒い掌の痣。肌に迫る程赤みが薄い白唇がゆっくりと開き――。
「お先にどうぞ」
「盲人を、しかも女人を斬るのは忍びないが、左程に言うのであれば。だがその前に、剣士としての儀礼だ。今一度名乗るべし!我が名を、そして我が剣の名を!」
「聞こう」
「大陸は南、ゲオヒントニアの産まれ。父の名はバロディア、先代の皇帝陛下に仕え、”刺青の猛将”と怖れられた――」
「弁が立たぬという割には良くしゃべるな」
 砦兵たちが失笑する。
「くっ!侮蔑したな!我が魔剣の名は『ドリコテレ』いざ」
 瞼を閉じたままのアシュガ目掛け、コピアポアが飛び掛かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?