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〈Column〉 あの日の記憶、つけあげ編

「ただいまー!」
よし、兄ちゃんはまだ帰ってきてない。

一直線に部屋までダッシュし、勢いよくドアを開けてリュックを投げ捨て、再び玄関まで華麗に舞い戻った。キッチンから母さんが何かを言っていたような気がしたが聞こえていないふりをして「言ってきまーす!」と外へ出た。

玄関先に置いてある兄ちゃんの自転車を引いて近所の公園までやってきた。「今日はなんだかいけそうな気がする」給食を食べた後くらいから根拠のない自信がずっとあった。
『補助輪のついていない兄ちゃんの自転車で、しかも兄ちゃんが帰ってくるまでに乗れるようになるんだ!』
思えば前日までと違ったのはこの勢いだったのかもしれない。

数回はフラついたものの、足を踏ん張り回転を強めたら自転車はどんどん前へと進んでいった。今まで感じたことのない流れる景色、このままずっとどこまででも行けると思った。時間など忘れて自転車のサドルから伝わる振動と、流れ行く景色をいつまでも楽しんでいた。

気がつくと公園の端の方に兄ちゃんの姿が見えた。『勝手に乗って怒られる!』その考えが頭によぎった瞬間、バランスを崩して転倒してしまった。
地面に横たわる僕のところへ歩いてきた兄ちゃんは、怒ることもなく、自転車を起こすでもなく、僕へ向かって「おめでとう」と言って一枚のつけあげを手渡した。

後に母さんから聞いた話だと、公園で補助輪なしの自転車に乗れた僕を見て、兄は近所のつけあげ屋さんへなけなしの小遣いである小銭を握りしめ、つけあげを二枚買いに行ったのだという。

自転車に乗れた嬉しさと、兄の愛情を感じながら食べたつけあげの味は、大人になった今でも忘れられないとても大切な想い出の味になっている。

来週は鹿児島の実家へ帰るから、久しぶりにあの店のつけあげを買いに行こう、そして兄の家へ行って一緒にお湯割りを飲みながら昔話でもして過ごそうかと思う。

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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