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自分の見た目を肯定できたと思っていた

先日、友人とカフェに行ったときのこと。
私がお菓子を食べていると、彼がその姿を写真で撮り出した。
冗談めかして「恥ずかしいからやめてよ」と言っても、彼は悪戯っぽく写真を撮りづつける。
私はだんだん居心地が悪くなってしまい食べる手を止めて、もう一度「やめて」と言ってみた。

「どうして?」と聞いてきた彼に対して、
「写真を撮られるのが好きじゃないの」と答えると、
彼はさらに、「かわいいし、完璧だよ。わかってるでしょ?」と言う。

私はそれを否定も肯定もしたくなかった。
人からの褒めことばを否定するというのは、その人の意見やアイディアやせっかくの厚意を否定してしまうことになるから。

だから曖昧に笑いつつ、「ありがとう」とだけ言って誤魔化してその会話を切り上げようと思ったのだけど、
「日本人はシャイだし謙遜する文化があるもんね」
と言われて、ことばに詰まってしまった。

確かに日本には褒められても「いやいや、そんな、それほどでも…」と謙遜する文化はある。
私も以前はそうしていたんだけれど、高校時代の友人が「かわいいね」と言われるたびに「でしょ? 知ってる」と返事をしているのが爽やかで見ていて心地よかったし、別の場面でも自分が褒める側になったときには、褒めた相手が素直に、はにかみながら「ありがとう」と受け取ってくれたときのほうが嬉しくて幸せな気分になる。

だから私も、できるだけ褒められたときには素直に受け止めようとしてきた。

だけどその日は、自分の見た目を褒められて戸惑ってしまった。嬉しいけど恥ずかしくて困る、というポジティブな戸惑いではなく、自分の見た目が他人に認識されているということを改めて知ってしまって居心地が悪く感じた。

例えば私はネイルアート(と言っても専らマニキュアを塗るだけだけれど)が好きなのだが、色やデザインを変えるたびに「かわいいね」とか「似合ってるね」と褒められるのは嬉しい。

あとは内面的な部分に関して、「よくわからないところで急に肝が座るよね」(これは褒められてるんだろうか…)とか、「フレンドリーで話しやすいよね」とかと褒められるのは嬉しい。

だけど見た目を褒められるのは、素直に喜べない。
もちろん褒めてほしいのだけど、「かわいい」と言われたら嬉しいのだけど、素直に喜べない。

私は子どもの頃、特に中学生、高校生頃まで自分の見た目が大嫌いだった。
顔が大きい、目が小さい、鼻が低い、癖毛、上半身はガリガリなのに下半身は太いというアンバランスな体型。
中学生くらいから周りの友人は垢抜けていくのに私は変われなくて、変わりかたも分からないまま、かわいくなった友人の輪の中にいた。

授業の合間の休憩時間に友人と一緒にトイレに行く。
友人は鏡の前で髪を整える。私はその隣に立って、鏡に写る彼女と自分の見た目を見比べては消えたくなった。

それを何年も繰り返しているうちに、私は自分の見た目のコンプレックスを極力見てみぬふりをすることで、過度に不安になったり落ち込んだりするのを避けるようになった。

そうしているうちに、中学生の頃ほど自分の見た目が気にならなくなっていたから、私は自分の見た目のコンプレックスを克服したのだと思い込んでいた。

鏡や写真を見ない限りは、自分で自分の容姿を見ることはない。

毎日顔も洗うしメイクもするしときには髪をセットすることもあるけれど、極力鏡を見ないようにしていることに気がついた。
自分だけのセルフィなんて絶対に撮らない。
たまに友人がふとした瞬間の私の写真を撮って共有してくれるけれど、それを見てしまうと落ち込む。

大人になってからは、過去の自分のいろんな傷やトラウマに気づいて向き合って学んで、少しずつ癒そうとしてる過程なのだけど、
そのなかで自分の見た目を肯定できたと思っていたけれど、
どうやらそのコンプレックスから目を逸らしていただけだったようだということに気がついた。

それ自体が悪いことだとは決して思わない。
ネガティヴな部分にばかりフォーカスをして落ち込んでしまうよりは、それ以外のポジティブなことに感覚を向けて、少しでも幸せな気分を感じたり、自分の機嫌や精神を安定させたほうがいいと思う。

だからどう、というわけでもないのだけれど、
またこうして一つ自分のことを知れたから、そのうちに癒せたり、
愛せたりするきっかけになったらいいなと思う。
少なくとも気づくということは、変化の第一歩だと思うから。

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