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考察:松ぼっくりについて


お葬式から同居人が帰ってきた。

前日に「あした葬式だから帰ってきたら塩かけてくれ」と言われていたので、もうすぐ帰るよという同居人からの連絡を合図に塩を食器棚から取り出して袋ごと持ち、玄関で待ちかまえていた。
がちゃりとドアが開いた瞬間、ひとつまみした塩を豆まきと同じ投球ホームで同居人にふっかけた。

そのあと、おかえりとただいまを言い合いながら2人でいっしょに家の中に入った。




人は、死ぬらしい。
前々からそうとは聞いていたけれど、やっぱり本当に死ぬらしい。

ひと通りお葬式の所感を述べ終えた同居人はわたしに向かって、「だからさーほんとにお前、死なないでよ。」と言った。わたしは、「死なないけど、じゃあそっちも死なないで。」と返す。
高校生のころ、後輩が自死したことを全校集会で知らされたあの時にも同じことを言われたなと思い出した。
そのときは、「死なないよ」とはとてもじゃないけど言えなくって、ありがとうみたいな感じの言葉を返した気がする。
どういう類のありがとうだったのか、あんまり思い出せない。



死ということについておもうとき、いつも命のある場所やかたちを考える。
わたしはずっと、命はなんとなく松ぼっくりのようなころんとしたかたちをしていて、それがそれぞれの体の中心のような、核のような場所にあるんだというイメージがあった。
でも近ごろ、命の実体のなさをリアルに突きつけられることが多く、だからこれについてはすこし考え直すようになってきている。

同居人がわたしに言う「死なないで」は、「お願いだから何も言わずに死ぬのはやめてね」という意味らしく、そこには単に死ぬのはよくないというような意味が孕まれていないやさしさがある。
だけど、人間の生死はそんなふうに自由自在にはコントロールできないんだろうなとも思う。
もういいやとかもう嫌だとか思ったとき、意図的に任意のタイミングで自分で自分の一生を終わらせることはたしかにできるけれど、その場合きっとどこかに自由な意志以外のものがはたらくと思っている。
わたしは別に意図的に死ぬことが絶対の悪だとは思っていなくて、でももし自分がそれをすることになるとしたらその理由は「幸せすぎだから」ということになると思う。
幸せはコントロールできないので、わたしもわたしの生死を自在に操ることはできない。


病院で、いとも簡単に偽物の顔をもらったことがある。
偽物の顔を作りあげてもらっている時、そしてそれができあがって古い方の顔がトレーにことんと置かれているのを見た時、ああ本当に、体って殻でしかないんだ…と痺れるほど実感した。
あまりにもモノだった。確実に命ではない。
それを知ってしまってからは、じゃあ命はどこにあるんだ、と余計に考えるようになってしまったし、命に形は存在しなさそうだとうっすら思うようになった。


別に命がどこにあるのかわかっていなくても、実はどこにもないとかでもよくて、生きているというまぎれもない事実のほうが一般的には重要なんだろうけれど、そしたらどうして命なんて言葉があるんだろうと思う。
形が無い上に、既に存在する言葉で補えるものにわざわざ名前をつけ、あまつさえそれを「大切に」というのはかなり押しつけがましい気もする。

幼稚園のころ、「今、いのちがあなたを生きている」という文言が書かれた大きなポスターをよく目にしていた。
わたしはこれを見るたび子どもながらに、「なんてめちゃくちゃな文法なんだ」と思い、隣にいたお母さんにそれを訴えた覚えがある。
あなたがいのちを生きている、なら、もしくはいのちをあなたがいきている、なら納得できるけれど、いのちがあなたを生きているなんて、それはもうなんなんだよ、とずっと思っていた。

でも今、改めて自分自身の思想を抜きにしながらこれを読むと、まあおそらくそういう場合も有り得るよなと、なんとなくは思うことができる。
それを実感できたことがあるか否かは置いておくとして、仮に「いのちがあなたを生きている」んだとすれば、命が先行してそこにみなさん自身が入っているということになりそうで、それなら命という言葉が存在することも腑に落ちる。

でもそしたら、いま生きているのはわたしではなくて命ということなるのか。それは少し怖い。
命のかたちはわたし自身・みなさん自身という結論に至ることになりそうで、とても怖い。


結局いつも、わたしが勝手にひとりでぼそぼそと始めるこの考察は確かな結びにまでは持っていけず、実際この時もそうだった。





先日、わたしは無事に死ぬことができた。
生前の予想通りそれが起こった理由は、わたしが幸せすぎになってしまったから、だ。

忙しなく厳かに執り行われた葬儀を経て、いよいよわたしは燃やされる。体が無くなる。

親しみ深い人たちが体の無いわたしを囲みながら、残った骨を拾う。ひいおばあちゃんが死んじゃったときに、わたしもやったなと思い返したりした。

それにしても結局、やっぱり命なんてものはどこにもなかったんだなと思った。
さっき自分が燃やされているとき、命が燃える感覚は一切無かったし、かと言って今ぎりぎりあるものの中に命をみつけられそうにもない。

けれど、最後にぽつんと残ったものを見て震えた。
もう震わせられる体なんて気体になってどこかに行ってしまっていたのに、震えた。


ああ、わたしが命の形だと思っていた松ぼっくりって、喉仏だったんだ。

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