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22:00以降の水道水は美味い


自分が手に持っているたべっ子どうぶつがどの動物なのかを確認する前にすべて口に入れてしまっているときは、ちょっと心が限界になってきている証拠だという自分専用の基準があるんだけど、最近それになりつつあるのでどうすればいいんだよと思っている。
YouTubeで「落ち着く」とか検索して出てきた、他人の名言を他人が朗読している音声を垂れ流してみたりもしたけれど、マジで1ミリも何も刺さらなかった。ていうかこれ東京に引っ越してくる直前の2月あたりにもやってたっぽく、そして同じくまったく何も刺さっていなかったらしい。それはそうだろ。


新幹線で知らないサラリーマン(知らリーマン)と隣の席になった。
知らリーマンがパソコンをひらいて仕事をしたり駅で買ったお弁当を食べたりしていると、少し苦しくなる。
他人の些細な活動を何時間も横目に感じることで、人間のひとしく満遍な尊さを目の当たりにした気になって、くるしくなる。
知らリーマンも、いま新幹線に乗っているみんなも、新幹線の外にいるすべての人も、誰も彼もが嫌な思いをしないでほしい、転ばないでほしいみたいな気持ちになって、でもきっとそれは不可能に近いことなんだろうと思って、くるしくなる。
存在しているのかもわからない誰かの、存在することになるのかもわからない不幸について考えて、それをどうやっても防ぐことができないことにくるしくなる。
自分は自分のことが大切で仕方ないし、自分をさしおいて自分以外の誰かについて考えながら自分に向ける思考や運動をおろそかにすることなんて普段は絶対に無いのに、たまにおとずれるこの誰かたちへの普遍的な慈悲ターンだけはどうしても避けられず、ほとんど虚構と言ってもいいような大量の他人に気を持っていかれてしまう。

まあでも本当にこんなことを嘆いてたってしょうがないし、しょうがないなあと思いながら外を眺めている間に目的地に到着し、荷物の多さに辟易しながら品川駅のホームを歩いていれば前からやってきたぶつかりおじさんにぶつかられ、そこでもう完全に、わたしの、他人に対する慈しみモードは消えた。
この世は終わってるという、真夏で真昼の晴天の渋谷を歩いてるときみたいな気持ちに、ぶつかりおじさんが引き戻してくれた。
だからおじさんに対しては、ありがとな、ありがとな、なんか、電車とか1本乗り遅れちゃえ!ぷん!とだけ思った。
キャリーケースの取っ手からずり落ちたトートバッグをいそいそと戻しながら、自分をたすけられるのは自分しかいないということを改めて強く深く感じた。

本当の意味で自分を抱きしめられるのも本当の意味で自分をたすけられるのも、どう足掻いたって自分しかいないんだということになんとなく気づいたのは、退学する直前の高校で、保健室に常駐してるカウンセラーの人とはなしをさせられたときだった。知ってることしか言われなかった。おしまいじゃん…て思った。それはわたしがまだ幼かったせいもあるし、そのおしまいじゃん…という気持ちが、実際いま、関わってくれるあらゆる人たちのおかげで薄まるときがあるのも事実だし、なのでみなさんに対しては、ありがとな、ありがとな、なんか、電車とか絶対乗りたいやつに余裕を持って乗れますように!きゅぴーん!と思っている。


たべっ子どうぶつ(SPARROWだった!)をむしゃむしゃして部屋の白い壁をみつめていたら、唐突にテニスラケットのことが思い浮かんだ。
あれのガット部分がもしも素麺でできていたらという仮説が拭えなくなった。
仮にテニスラケットのガットを素麺でつくってしまっていたら、ふにゃふにゃでとても頼りないな、と思う。
だけど、意外とボールが当たった時は破けたりしないで、やわらかく受け止めてくれる気がした。
とは言ってもやっぱりたぶん、ラケットを振るときの遠心力には耐えられない気がするから、ボレー専用だなと思った。
そしたら素麺でできたテニスラケットはつまり前衛向きなのでわたしには無関係だなとまで考えたところで、口がパサついてきて猛烈に水が飲みたくなった。
目の前にあったペットボトルを掴んんで口に入れようとした瞬間、これが4日前の水だということに気づき、すんでのところで腹下しを回避した。
この水が飲めないとなると今家には飲料水がなく、どうしたものかと思った。

時計を見たら23時を過ぎていた。

ああそれなら水道水が飲めるなと思った。

水道水は基本的にまずいから、氷を入れて飲むみたいな誤魔化しをしないととてもじゃないけど飲めないけれど、なぜか22時を過ぎれば水道水単体で飲んでも別に美味しいということに3年くらい前気づいた。
仕組みはまったくわからないけど、まあわからないでいた方がいいことっていっぱいあるだろうし、分かりたくなかったこともいっぱいあるので、ただそのまま、22時以降は自分は水道水を飲んで良いという法則に従って、23:05の水道水を飲む。
ゴクゴク。
美味しー。
マジで何でなんだ。不思議すぎる。
でもいいや、美味しいから。
そんな感じ。

そんな感じで生きていく日にちをのばしていって、その先にまたうれしいことが待ってたりすればいいよねー、って、水道水のおかげでそういう段階にまでは気持ちを落ち着けることができた。

他人の名言なんか聞いてる場合じゃなかったぜー。


自分で汲んだ22時以降の水道水、ほんとう、ありがとう…。

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