見出し画像

いのちを食べる

朝の天気が非常に最低で、地下鉄の扉の開閉音をナイーヴに聞きながら1日をはじめた。てらてらとした色の座席がよけいに感傷を引っ掻く。

こういう風なからだ中のざわめきは、しばらく座っていれば少し落ち着くはずだけれど、きょうはたった3駅で降りる予定で乗車してしまったのでもうどうにもできない。

こんなところで一度座ったら、二度と立ちたくなくなりそうだった。

5人組がうまくつくれずちぐはぐのメンバーになったグループで、円滑なコミュニケーションもままならないまま謎のオリジナルダンスを考えさせられる体育の時間がある日とか、みんなが楽しそうにしてるからきっとこれは楽しいことなんだろうと思い込みながら参加した子どもキャンプの夜に、もう一生ママには会えないみたいな気持ちになってどうにもならずに泣き出してしまったときみたいな、そういう感情をリアルに思い出すことになるぬるさと湿度と曇天だった。

心地が悪くて心が騒いで不安でしかたなくなった。


たとえば、いま生きている大切で大好きな人がいずれ死んでしまうことを考えて異常に怖くなる。
それはきっと、その大切で大好きな人が認識してくれているわたしというのが消えてしまうことへの計り知れない恐怖なんだと思う。
わたしを言葉少なで理解してくれて、わたしのあらゆる面を知りながらわたし専用の肯定や批判の言葉をかぶせてくれる、そういう他人を失うことへの異常な怖さというのは、裏を返せば、社会の中でわたしが望むかたちで保たれるわたしそのものの「消失」ということで、とにかくそれが、極端に言ってしまえば、それだけが、ほんとうに怖いのだろうとうっすら理解している。他人のことを大切と称しながら、結局その他人を跳ね返してみる自分自身についてばかり気にかけている。でもそんなことは仕方ないし、そもそもそれは捉え方の角度の問題で、だからわたしもみんなも、それで良いんだと思う。

電車から降りて外を歩いていたら、街頭で献血を呼びかけている男の人が、「あなたの捧げる血液で 尊い生命 救われます」と声を張り上げていた。あまりに心地のよいリズム感のせいで、一言一句完全におぼえてしまった。
「生命」の部分が「命」ではなく「生命」なのも良い。誰かの血液によって救われるのは、命ではなくて「生命」なんだよなあと思い、だから、生きていることは、命が生きていることで、死んでいることは、命が死んでいることなんだと気づいた。もしかしたら、命には「消失」という概念が無いのかもしれない。

そういうことを考えながら帰りにニューデイズへ寄ったら、なんと、「いのち」が売っていた。
わたしは150円でいのちを買って、駅のホームで食べた。

思い返せば、わたしはこのとき初めていのちを手に持ったわけだけれど、いのちというのは思ったよりも軽くて、びっくりした。

よく、いのちの重さは平等ですとか言うのを聞くからいのちは重いものだと勝手に想像していたけれど、あれは平等性の主張に重点を置いた文言であるだけで、重量という意味ではなかったのだとようやく分かった。

だからおそらく、どのいのちも平等にこの軽さで、そもそも平等なんだから重量においては軽いも重いもないし、さらには、もしもわたしが勝手に想像していた重さのいのちがそれぞれに与えられていたとしたら、一生を共にするいのちの重量そのものに耐えきれず、それだけで辟易してしまうと思ったので、いのちはこれくらい軽いのが妥当だと思った。


何にせよ、150円で買ったいのちはふわふわしていて、軽さの割には中身が詰まっていたし、りんご味がしてとても美味しかった。
いのちは全体が可食部だったので、それもひそかに嬉しい。

いのちをたった4口で飲み込んだわたしは、いちどに大量のいのちを飲み込む電車に乗りながら、わたしのいのちも、できればりんご味がいいなあと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?