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瞬足!2023



大量の他人が歩く駅のホームに紛れているとき突然、愛のような奇妙な感傷にいっしゅんだけ心をとらわれることがある。


そのあいだは、だれもかれも次の乗り換えに遅れませんようにと願って、まただれもかれもこの先ずっと苦しいきもちにならないようにと守りたくなる。

その一時的な感情を通りすぎたら、またすぐに、自分に対して向ける愛だけでいっぱいいっぱいになったりする。

恋はわからないけど愛は分かるのかもしれないという気でいたけれど、この場合は、不特定多数の他人に愛を与えた気になって、不安定なじぶんの存在の安定を図ろうとしていただけなのかもしれない。

はたまた、こんなロジックをうだうだと連ねる必要もないくらいに単純な、ただの気分なのかもしれない。





でも最近はなんとなく、もしも恋のようなものがいきおいで成り立っていくものだとしたらそれは瞬発力が大切だということになるし、そうしたらきっと愛は、じわりじわりとじぶんの内側や自分以外のまわりからかためられていくものだと気づいた。




毎日トイレの掃除を欠かさないことが何かの効果を発揮しているのか、東京に来てからは基本的にずっとやさしい人ばかりと出会っていて、だからそういういろいろな人やものに支えられ過ぎている実感の結果がこうなっている。


自分を完全に抱きしめてあげられるのはどう足掻いてもけっきょく自分だけなのだという安定的な絶望が訪れることにはもちろん変わりないけれど、裏を返せばこれは、この上ない幸福を基盤にたどりついた論理でもあるのかもしれないと思うようになった。




恋と同じように、何かに走りだすときも瞬発力に左右される。
だからたぶん今、大好きなみんなの中にいることができている。



会話も、人生も、瞬発力がものをいう。
それは現在進行形で、まだまだ勉強をしている。



わたしは足がはやいひとが好きなので、それもきっとつまり、瞬発力ということになる。



この場所やその刹那に恋しながら、また新しい青さが走りだしている。


いまのわたしにとっては、恋の瞬発力に似た速度の中で愛を経験しているような気がする。


柄にもなくかなり頻繁に3人に向けて大好きと言ったり思ったりするのは、縋りたいわけでもなく同じようなことを言い返してほしいわけでもなく表面的なポーズでもなく、まるきり本物の大好きが都度あらわれてしまうからなのでした。照


これって恋(とっても広義)のような愛のおかげかも・・・。

ふわふわ・・・照

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