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雨を見くびる、猫と住む


2月10日の外は強めの雨だった。
東京はけっこう雪らしい。

東京の天気なんてずっと他人事だったのに、あと1週間もすればそれがおおいに自分事になるんだと思うと、胸がいっぱいというより下腹から鎖骨にかけての一帯にあらゆるものがつっかえてるみたいな、新鮮な味のくるしさに見舞われる。

こげた茶色の外階段に垂直に衝突して弾ける雨つぶとか、湿った深みどりのおおきな松の木とか、19年慣れ親しんだ窓から見える雨の日の景色を究極のセンチメンタルでみつめちゃってて、いやはやかなり滑稽なわたしなのでした。おしまい。



ではなく、ほんとうは、こうやって文章を書くのもままならないほど今はちょっと気持ちがぐらぐらで、油断するとどうにかなってしまいそうなのですが、きっとこういうのは後から記憶をたどってなぞり綴りをしてもそれはもう既に大嘘になっていて遅いだろうと思い、とりあえず両耳にイヤホンを突っ込んで坂本龍一の戦メリ(←この世で1番好きな曲)を鬼リピさせながら、落ち着いた呼吸を意識しつつ文字打ちします。



※この間にも雨は降り続く




雨はいつも、何をするでもなくただぼーっと外を眺めたまま、見つけてよ見つけてよとその場に留まり小さな声で叫ぶだけで特段動き出さないわたし自身への、合法的な言い訳になってくれた。
安心で安全な家から見る外の濁りに、なんだ世界全体がもう灰色なんだと錯覚し、夢想するディストピアにうれしくなったりもした。
不謹慎な話だけれど、小学生のころ、インフルエンザが流行って日に日にぽっかりと空いていく教室の机を数えている時みたいな、そういう特別な、非日常的なたかぶりを雨は思い出させてくれる。

晴れがわたしの敵だと仮定すれば、まあ雨だって味方ではないんだけれど、少なくとも敵ということはないように思える。だから、好き。


それなのにきょうに限っては、雨に守られているような自分がどこにも居なく、雨に突き刺さりにいくみたいな、 不安定だけれどある意味では真っ当なゆらぎに襲われることになった。
今のわたしの中には、あたらしく外気からの不安が入り込むすきまが到底無くって、だからそのせいで、こういう天気のこういう空気がもたらす普遍的な憂いを至極真っ当にくらっているらしかった。少しずつ苦しいらしかった。なんか、ぜんぶを他人事にしたくなってきてしまった。


高鳴りだってきっと、ていうか絶対にあるのに(だって今までもたくさんあったから…)、初めて経験する不鮮明な感じのわくわくにびくつく保守的でかわいいわたしが、素直にそれを感受しようとしてくれない。甘受しちゃえばいいのに!照

じゃあ別に根本的には、憂いも高鳴りもバランス良くただ足りすぎているだけなのか・・・ええ、そんなのって、この上なく幸福な状態なんじゃないの・・・。

今はあまりに余裕がなくて、そんな風なオチにはなかなか納得できない状態だけれど。

でも、わたしいま幸せかもと思って、ああほんとだ幸せだよねと簡単に気づいて合意できるような幸せの予感は、けっきょくそれ自体が怖くなっていつも逃げてしまう。
だから、まだ全然ぜんぜん分からないけど、こんな感じでフェイズを踏みながら論理を積んでいって行き着いた先の結論でしかないように思える幸福が、もしかしたらけっこうほんとの、ほんとかどうかは置いとくとしても、少なくともわたし向きの幸福だったりするのかもとか、思う。



くどく思考に没頭する湿っぽさが雨音とリンクしてこころがおかしくなる。

一旦、こんな感じの気持ちのおさめ方をして着地した場所で聴く雨だったけど、やっぱりどうにもならず不安で、それでもだんだんこの記録への小っ恥ずかしさが勝り、ふたたび顔を上げてみる。



まっくろい猫が、外からこちらを凝視していた。
きのうも同じ場所で会った猫だった。
雨を、あっさりと(!)背景にしていた。
すごいと思った。





わあ〜と呑気な声を出しながら窓にうっすら映っている自分は、わあ〜の口をしたついでに欠伸を始めていて、やっぱりどうしても、どうしようもなく、滑稽なのでした。

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