メガネは顔の一部だが、顔は「私」の一部ではない

働き始めてから、メガネをなくしたり、壊したりすることが多くなった。

近視と乱視がひどくて、メガネは手放せない。
コンタクトを使っていた時期もあったが、円錐角膜という、角膜が常に隆々と勃起(!)している病気で、コンタクトだとうまくはまらないのだ。
(目がいつも勃起しているのだから、頭の中がエロくても許してもらいたい…)

にもかかわらず、メガネをなくす。

仲良くしてくれる女の子がメガネ男子好きで、最近買ったメガネを「似合う」と褒めてくれたので、次はなくさないよう厳重に管理しようと心に誓っている。

「大事にしなよ。『メガネは顔の一部』なんだから」

たしなめるように言う彼女に笑いかけながら、心の中で呟く。

「メガネは顔の一部だが、顔は『私』の一部ではない」

以前別の記事でもお世話になった加藤尚武『ジョークの哲学』の中に、「汝自身を知れ」という章がある。(p101-112)

私が一番よく知っているある人間に、私はまだ出会ったことがない。
(中略)
それは、私自身である。私の経験世界の中に私自身は見えない。
加藤尚武『ジョークの哲学』p101

ジョークの話をしているとは思えない哲学的な書き出しのこの章は非常に面白い。
僕らが世界を「注意深く」観察しようとすればするほど、自分自身を度外視し、かえって「不注意」が生まれる逆説(p101-102)。
当事者であるのに自分を度外視してしまうことから生まれるジョーク(p102-108)。
それらについて触れた後、加藤は下記のような問題提起をする(p109-112)。

私の身体を持つのは誰?

普通に考えれば、「私の身体」は「私」が持つに決まっている。
しかし、論理学的に厳密に考えると、ひとつの逆説に行き当たる。

総じて「XのY」とは、「XがYを所有する」という関係を表現する。所有対象に所有主体は含まれない。所有対象は所有主体の外部にある。
加藤尚武『ジョークの哲学』p110

つまり、「私の身体」とは、「私が身体を所有する」という関係を表現しているが、所有されるものである「身体」は、所有するものである「私」の外部になければならない。
つまり、「身体」は「私」の外部にあるのである!

また同じ論法で、「私の生命」も、「私」の外部にあることになってしまう。

身体も生命も「私の外部」にあるとしたら、その当の「私」はどこに存在するのか。「私は私の身体を持つ」と言う時、「持つ主体」である「私の存在」が宙に浮いてしまう。所有と存在を分けることの中に、「私」の存在可能性がある。これはフランスの実存主義哲学者G・マルセルの主張したことである。
加藤尚武『ジョークの哲学』p110

このマルセル自体を僕は読んだことがないのでその哲学については語る資格がないが、加藤の前後の論の文脈からこのように理解している。

「私は私の身体を持つ」と発話する時の「私」とは実は、「私」ないし「私の身体(フィジカルなプレゼンス)」を度外視した、質料のない純粋な認識主体のようなもの、デカルトでいうなら「我有り」という認識に達する前の、「我思う」のみの「我」のようなものなのだ。しかし現存在としての「私」はもちろん「身体」を含めた「私」であって、そこに所有、認識と存在の間に齟齬が生じる。

その意味では確かに、「身体は『私』の一部ではない」のだ。

顔を見て人の心のありようを知るすべはない(シェイクスピア『マクベス』第一幕第四場)

身体の中でも特に、「顔」は「私」であって「私」でない箇所のひとつだ。
端的に言えば、外界(あるいは社会)とのつながりを持つことが最も多い部位だからだ。

ユングの精神分析で、「ペルソナ」という概念がある。自己の外的側面、つまり「仮面」である。もともと古典演劇で役者が着ける仮面を、ラテン語で「persona」と呼んでいたことから命名された。

しかし「ペルソナ」という「仮面」は、素顔の時にこそ意識的に装われるものではないか。

顔を見て人の心のありようを知るすべはない。
‘’There's no art
To find the mind's construction in the face:‘’
(シェイクスピア『マクベス』第一幕第四場)

スコットランドのダンカン王が、反逆をしたコーダーの領主の処刑の報告を受けた時に発する台詞である。
執行前に悔い改め、反省の意を示して立派に処刑に臨んだかっての忠臣を思い、こう嘆く。
皮肉なのは、この直後に反逆を制した忠臣として帰還したマクベスを王は歓迎し抱擁するが、そのマクベスもまた、新たな反逆を胸の内に秘めていることだ。マクベスと会っても、「顔を見て人の心のありようを知るすべはない」ダンカンは、みずからの行為でみずからの言葉を証明してしまう。ドラマティック・アイロニーである。
(この台詞については、翻訳家の小田島雄志も『シェイクスピアの人間学』p131-133で取り上げている)

顔とは外界の観客に向けて演じるための「仮面=ペルソナ」であり、「私」自身とは同一ではなく、時にはまったく無関係に存在できるのではないか。

「君のその笑顔は、『君』の一部なのだろうか?」

そんなことを考えながら、安いシャンパンの栓を開け、乾杯をする。
シャンパンの泡越しに映る彼女の笑顔は、食べてしまいたいほど愛らしい。

微笑みあいながら、ふと疑問に思う。

「君のその笑顔は、『君』の一部なのだろうか?」

その答えはきっと僕には分からないし、彼女自身もきっと分からないだろう。
それでも、二人で笑い合える今ならば、君の笑顔も僕の笑顔も、「ふたりのもの」だと言おうじゃないか。

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