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「コジ・ファン・トゥッテ」

「Così fan tutte! (女はみんなこうするもんさ)」
有楽町のガード下のドイツ料理屋でビールを煽りながら、僕は苛立って呟いた。
久しぶりのヴァイツェンの甘ったるい香りが、渇ききった口腔にまとわりつき、息が詰まる心地がした。

立て続けに、それも別の相手からすっぽかされるのはあまり気持ちのいい話ではない。
まして直前まで乗り気な素振りを見せていたのだからなおさらだ。
もっとも平気な顔で別々の女性に声をかけていた僕自身もとんだドン・ファン(=「ドン・ジョバンニ」)で、人のことは言えないけれど…

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

あれから2年が経ち、またこのオペラを観ることになるとは思わなかった。
それも、またひとりで。

『コジ・ファン・トゥッテ』。
モーツァルトの名作オペラ。
前回は日生劇場で藤原歌劇団の公演だったが、今回は上野公園の東京文化会館で小澤征爾音楽塾の公演だ。
真夏の暑い時期だった前回は近くの日比谷公園を散策するのも億劫だったけれど、今回は春先(3月23日)というのに肌寒い雨の日で、公園の喫煙所で一服するのも震えながらだった。桜も膨らんではいるがまだ開花していない、どんよりとした寂しい冬の景色だ。
そして前回は直前ですっぽかされたけれど、今後は最初から、「ひとり」だった。

オペラの観劇の楽しみは、もちろん作品自体の観賞体験がメインではあるけれど、劇場という「場」を楽しむ部分も大きいと思う。学生時代から読んでいるクラシックの本いわく、

オペラの魅力にとりつかれた人なら誰でも知っているように、この芸術は特定の時代、特定の地域、特定の社会階層、そして何よりも特定の雰囲気ときわめて密接に結びついている。真紅の絨毯やシャンデリアの輝き、シャンパン・グラスのふれあう音、馬車(今なら高級乗用車)で劇場に乗りつける燕尾服やイブニング・ドレス姿の紳士淑女、香水と高価なアクセサリー、客を鄭重に迎える案内係、ロココ風の金細工を施された椅子、舞台に投げ入れられる花束、そして天井桟敷のファンたちのサッカー競技場顔負けの熱気とかけ声ーこれらが渾然一体となって醸し出す雰囲気こそが、私にとっての「オペラ的なもの」の原型なのである。
岡田暁生『オペラの運命』中公新書 2001, p iii

フィクションだと19世紀のフランスの小説や、ヴィスコンティの映画に描かれるような豪奢な雰囲気。
あるいはトルストイの『アンナ・カレーニナ』でもいいかもしれない。
そこでは芝居に熱狂して口笛を吹いたり、「ブラヴォー」を叫ぶ人々がいる一方で、劇場を社交界の一部と捉えて、愛の駆け引きをする紳士淑女もいた。

ドイツ留学時代を思い出すと、一年間で三回観に行っただろうか。
一回は外国人留学生向けの夏の語学コースのイベントで、確かヴェルディの『シチリアの晩鐘』だったと思う。幕間にシャンパンを飲んだせいか、生まれて初めて観たオペラだったせいか、ちょこちょこ寝てしまったけれど…

その語学コースでノルウェー人の留学生と仲良くなって、彼の神学部の友達と一緒に音楽を聞くようになった。管弦楽は一、二回大学内の講堂で聞いて、オペラは車でシュトュットガルトまで出て観賞した。
オペラは確か二回観て、そのうちの一回はリヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』だった。事前にレクラムでホフマンスタールの戯曲を予習したからよく覚えている。公演後に劇場近くのレストランに入ってオペラの話をして、友達はラストの演出がちょっと暴力的だったと言っていたけれど、僕はいわゆる「世紀末」(19世紀末)の芸術が当時持っていた尖った感じを現代の観客に与えようとした演出なのではないかと擁護して、けっこう熱く議論した気がする。

少し脱線したけれど、オペラというのはそれを楽しむための「場」とその周辺、「雰囲気」みたいなものを含めて楽しむようなものということだ。

早めについて席に着き、舞台にはまだ緞帳が下りているけれどオーケストラは音出しをしていて、わくわくしながら開演を待つ時間。
もし誰かと待ち合わせをしていたら、劇場の前だか最寄り駅の改札前だかでそわそわして待つ時間(女性はだいたい遅れてくるものだ)。
幕間になったら劇場の外でシャンパンを飲みながら話をしたり(コロナの頃は飲み物を出してくれなかったけれど、今回はちゃんと出してくれた)、煙草を吸ったりする。ちなみに葉巻メーカーのダビドフはこういうシーンのために、「エントラクト(幕間)」という短いサイズのシガーを作っていて、海外なら幕間に吸う人もいるのだろう。
そして公演が終わったら近くのカフェだかレストランだかパブだかバーだかに行って(近く、というのが重要で、劇場から離れてしまうとその芝居の「アウラ」みたいなものが薄まってしまう? 感じがするのだ)、オペラについてあれこれ話をする。ゲルマン系の男友達とは議論になるだろうし、日本人の女性相手なら軽い感想の交換になるだろう。耳のいい人なら序曲かアリアかを口ずさんだりするし、ストーリーや演出や舞台美術について話したくなる人もいるのだろう。そうこうしているうちに夜が更けて、ハレの日の愉しげな心持ちのままでそれぞれの家路につく。

こういう観劇の前後に拡がる一連の体験すべてが、「オペラを楽しむ」ということだ。
となると、ひとりで観てひとりで帰るというのはいささか虚しく、なんとももの悲しいものだ…

ただまぁ、『コジ・ファン・トゥッテ』についてだけ言えば、女性とのデートにはちょっと向かない脚本ではある。
元カノみたいな子に昔説明した時も言われたし(だから2年前直前でドタキャンしたのかもしれない)、今回観劇した後に寄ったバーのマスターにも「下衆」な話だと言われてしまった…

このオペラは結構有名だし、先ほど引用した新書と同じ著者の『恋愛哲学者モーツァルト』(新潮選書, 2008)でまるまる一章の詳論がある(第五章 臍をかんで大人になる? 《コシ・ファン・トゥッテ》と男女の化学結合 p145-177)。
だからまぁ、僕のような素人が偉そうに語る余地があるか微妙ではあるのだけど(結局僕はオペラをドイツで三回、日本で五回しかみたことがないし、小澤征爾塾の公演はこれが初めてだ)、今回ひとりで観ることになって、誰とも体験をシェア出来なかった淋しさもあるので思ったことを少し書いてみる。

まず序曲がなかなか聴かせる。
最初のほうの木管の甘いメロディーに、弦楽器の刻むような音が楔を打つ。そして続く弦楽器の旋律はかなり速く、音の高低、メロディーの明るいぐらいが入れ替わるスピードも急。スリリングな展開の合間に、甘い音色が現れるけれど、それはすごく自然で無理がない。
変な話、『フィガロの結婚』序曲の性急さとドタバタ感、『ドン・ジョバンニ』序曲のデモーニッシュなテイストを合体させて、そこにロマンチックな「甘さ」を乗せたような感じだろうか。それはチョコレートのような、ほろ苦さを含んだ大人の甘みで、短いパッセージなのになぜか心に残り、弦楽器が忙しくかき鳴らしている間も耳にこびりついて離れず、蠱惑的にささやき続けている。
オペラ自体の筋を予告するような素晴らしい序曲だ。

ちなみにこれはオペラに限ったことではないが、演劇でも音楽でもライブで観ると、目や耳だけでなく、「身体全体」でそのパフォーマンスを「感じる」ことになる。打楽器や低音域の弦楽器の音が床を揺らしているのを足から感じたり、鋭く刻むような旋律が腕や肩に切りつけるような感じがしたり、優しい音色が身体に入り込んで心を温めたりする。それはまさに「いま・ここ」的な体験で、言葉で表現するのはとてつもなく難しいけれど、とにかく素晴らしい体験なのだ。

序曲の後にオペラが始まる。
全体的に素直で、分かりやすい演出だった。
なので非常に見やすく、すんなりと楽しむことができた。
ちなみに一階席の前から10列目の上手側で、舞台がとても近かったのも良かった。

歌手も素晴らしかった。
歌も演技もいい。変装した男性二人がそれぞれの婚約者を入れ替える形で口説く訳だけれど、男性が時に激情的に求愛し、時に甘く媚びるようにささやくリズムがリアルだし、女性がそれに対し時にすげなく拒絶をし、時にほだされて柔和になり、かと思ったら怒りをあらわにまた拒絶し、かと思うと逆に誘惑するような素振りを見せてくる。

個人的にはドラベッラが良かった。いかにもコケットで、わりと最初のほうからアルバニア人貴族に変装した男性に興味津々。それも元々の婚約者フェランドではなく、グリエルモのほうに、である。口説かれる時のデュエットの駆け引きの感じもいいし、「陥落」した後のアリアも素晴らしかった。『ルパン三世』の峰不二子みたいな、「女ってこういうものよ」と言わんばかりに謳歌している感じ。

もっともフィオルデリージも、より「お堅い」ように見えてちょこちょこ口説かれてなびきそうになるし、案外自分から誘ってような素振りもあったりする。でも基本的には真面目だから口説いてくる貴族(変装したフェランド、ドラベッラの婚約者)を強めに拒絶し、でもその後のアリアでは心が動いている本心を独白する。そしてその後また口説かれて、結局は「陥落」してしまう。

いやぁでも、ドラベッラがとにかく印象的だったなぁ。筋としては男性陣が女性陣を賭けの対象にしつつ弄んでるはずなんだけど、ちょっとドラベッラ(と「コーチ」のデスピーナ)のほうも男性を手玉に取ってる感じもした。「ファム・ファタール」みたいなキャラクター像はモーツァルトの時代にはまだ早いはずだが、ちょっとそういう雰囲気を醸していたり。

ところで『コジ・ファン・トゥッテ』は副題に「恋人たちの学校(La scuola degli amanti)」とあるように、ちょっと教訓的なところがある。もちろん、オウィディウスの『アルス・アマトリア(ars amatoria)』が「教訓詩」という体裁を取っているのと同じ程度の意味で、「教訓的」なのだけど。
それでも変に説教くさくなく、しかも必要以上に皮肉でも辛辣でもない「丁度良さ」は、男性陣の師匠ドン・アルフォンソと女性陣のコーチのデスピーナの妙手だろうか。でも彼らも外野の安全圏から指示したり野次を飛ばしているわけでもなくて、けっこう感情移入して、親身になっていたりもする。ただそれも近くなりすぎない距離感の取り方がよかった。

…結局、「全部良かった」になってしまった。
もう少し解像度の高い観劇をしたかったのだけれど、まだまだオペラ観賞の経験値が足りないのか、「パートナー」と語り合うことで深められなかったからなのか…

舞台が終わってバーで飲みながら、あの八行詩を考えていた。
昔は隣にいてくれた、彼女のことを思いながら…

N. 30 - Andante
DON ALFONSO
Tutti accusan le donne, ed io le scuso
Se mille volte al dì cangiano amore;
Altri un vizio lo chiama ed altri un uso,
Ed a me par necessità del core.
L'amante che si trova alfin deluso
Non condanni l'altrui, ma il proprio errore;
Già che giovani, vecchie, e belle e brutte,
Ripetetel con me: «Così fan tutte!»
FERRANDO, GUGLlELMO E DON ALFONSO
Così fan tutte!
ドン・アルフォンソ
男はみな女を責める、だがわたしは許す、
たとえ彼女らが日に千回思いを変えようと、
ある者はそれを悪癖と、ある者は習性と呼ぶ、
が、わたしにはそれが心に欠かせぬものと思われる。
恋する者は、結局、欺かれていても、
相手でなく、自らの誤りを責めるがよい、
なぜといって、若くとも老いても、美しかろうと醜かろうと、
きみたちわたしに唱和したまえ、女はみんなこうするもの。
フェランド、グリエルモ、そしてドン・アルフォンソ
女はみんなこうするもの。
『オペラ対訳ライブラリー モーツァルト コシ・ファン・トゥッテ』音楽之友社 2002, p138


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