120万円請求事件

 自分は楽観的な性格だという自負がある。深夜に鍵を失くして家に入れなかった際は公園で一晩中ブランコに乗って靴飛ばしの飛距離を更新してきたし、会社でミスを犯した時も一晩寝るだけでテンションはいつも上向きに戻っていた。ただ、そんな自分が一晩の睡眠では拭えない程の不安に襲われた経験が幾度かある。その一つが会社員時代の120万円請求事件だ。

 アシナガバチが六角形の巣穴を健気に増大させている頃(多分6月)、何の予定もなくベッドの上で胡座をかきながら何周目に突入したか分からないハガレンを読む俺のもとに一通のメールが届く。

 「あなたのAWSアカウントが不正利用されている恐れがあります。現在の請求額は120万円となっております。心当たりのない場合はこちらのメ」

 途中でパソコンを閉じ、俺は放課後に職員室へ呼ばれた時のような後ろめたさに襲われた。高額請求のメールというものはあらかた警戒すべきものであり、返信したりメールに埋め込まれたリンクをクリックしてはいけないと常々教わってきたが、このメールに関しては例外だった。どうしたって心当たりがあるからだ。

 何を隠そう、そのメールが届く前日、AWSアカウントのアクセスキーがハードコーディングされたソースコードをGitHubのパブリックリポジトリにアップロードしてしまっていたのだ。(なんのこっちゃい)

 ITに精通している人なら上の一文を見ただけで
「あーあ可哀想に」と肩を抱いて共に涙を流してくれるかもしれないし、「俺も昔はそんなヤンチャしたもんだよ」とワルを気取りながら、ちぃちゃなコップにビールをなみなみ注いでくれるかもしれない。

 要はクレジットカード番号と暗証番号を一式ネットに書き込んでしまったような失態である。その時は焦ってすぐさま削除したが、俺のようなカモに眼を光らせているヤツらがこの世には存在しており、ものの数秒で情報を抜き取られてしまったのだ。(実に恐い世界である)

 諦めてパソコンを再度開く。しかしながら一体120万もの大金が何に使われているというのだろうか。詳細が気になりメールを読み進めていくと、俺の金で超ハイスペックサーバー(でっかいコンピューター)が世界20ヵ国以上で立ち上がり余す事なくその性能をフル稼働させている、という事実が明らかになった。ちなみにその20ヵ国には「ブラジルの皆さん聞こえますかー?」でお馴染みサンバの国も含まれていた。

 「俺、教育を受けられない子の為にカンボジアに学校建てるのが夢なんだ。」壮大で殊勝な心意気の青年を横目に、俺は何の努力もせず地球の裏側に超高性能サーバーを建設していた。いつかテレビで見た、裸足でサッカーに興じる未来のスーパースター達がいる国に俺は、それはそれは立派なサーバーを建てることに成功したのだ。それはきっと誇るべきことであり彼らの人生に俺は何かしら貢献できるかもしれない。

 「私の功績はオサナイなくして語れません。」バロンドールの受賞会見でトロフィー片手に語る青年。俺は当然のように涙を流しながら首を小さく横に振り彼を拍手で讃える。ここまで色々あった人生だが、振り返ってみると実りあるものだったと俺はそこで実感し、人生に意味を見出すことにようやく成功する。これからも世界中に夢と希望を与えてくれよ青年。俺が建てたサーバーのおかげでサンバの国に未来永劫語り継がれる一人の英雄が誕生した。そんな妄想に脳を浸らせ、再びハガレンのページを読み進めようとしたが、120万を失いかけているという現実は俺を見逃してはくれなかった。


 「え、やばくね?払えないんだけど。」


 自分に落ち度があることは自覚していたが、「僕騙されたんですよぉー。ねぇ本当なんですぅー。ねぇなんとかなりませんかねぇー」と全力で被害者面したメールを送ってみる。メールの相手がこんな白々しさすら受け止めてくれる人情深い人間であることを切に祈った。その時点で心臓はバクバクと(ちゃんとバクバクと)高鳴っていたが、返ってきたメールの文面は更に俺の不安を煽ることになった。

 「この額ともなると日本支社だけでは判断がつきませんのでアメリカ本社へエスカレーションさせていただきます。協議の結果が出るまで1週間ほどお待ち下さい。」

 笹塚で起こした俺の小さな失態が、海を渡りAmazon本社の会議室に辿り着く。世界中で俺のサーバーが乱立している上に、アメリカでosanaiの処分について英語で議論が交わされるのだ。

 マイケル「120 man datte. do-suru minna.」
 エマ「osanai ni harawaseyo-ze.」
 トム「kawaiso-jane sasugani.」

 スケールの壮大さに脳が追い付かず再度妄想へ逃避しようとしたが、120万の威力にいとも簡単に押し返された。そこからは文字通りなす術のない待機の1週間が幕を開けたのだ。

 1日目、ベッドで目が覚めると同時に、呆けた脳が憂鬱に覆われ反射で跳び起きる。仕事に行かねばならぬのに準備に身が入らない。困った俺は記憶の片隅にあった『幸せになれる方法』を実践してみることにした(確かバラエティアイドルから出産を経てママタレになったタレントがエッセイに書いていた方法である)。その方法は『無理矢理でいいから笑顔を作る』。強制的にでも笑顔を作ると脳内ホルモンが分泌され幸福度が上がるのだ。一人のママタレを幸せに導いたその方法を実践してみると不思議と心が軽やかになった。俺は名も覚えていないママタレに感謝した。

 2日目、同じくベッドの上で覚醒すると同時に、口角をキュッとあげ不安を振り払う。しかし何か作業を始めると自然と口角が下がってしまう為、一日中何度も何度も口角の上げ下げを繰り返した。次第に俺は無意識に口角を高い位置でキープできるようになっていた。人間って凄い。

 3日目、口角マジックの効果が切れてくる。麻酔は打つたびに効果が薄れるものだとMAJORの茂野吾郎から学んだ。吾郎のように何度も自分の体を誤魔化してきたがそれは限界に近付いていた。漫画で得た知識が経験で裏付けされた瞬間だった。

 4日目、エッセイで得たもう一つの方法を実践してみる。鏡の前に立ち「大丈夫!俺はできる子!幸せ!ハッピー!」言霊を自分に投げかけ麻酔をかける。もちろん口角は高い位置でキープ。これまた不思議と元気がみなぎる。ママタレって凄い。

 5日目、趣向を変え、ボックスを踏んでみた。ちょっとだけ愉快な気分になれた。

 6日目、ウルトラソウルを目覚ましにし、「ヘィ!」でベッドから飛び上がってみる。効き目は短かったが今まで試した中で一番不安が払拭された。B'zはやはり偉大だった。

 そして判決の日を迎える。次の手段として、『幸せになる方法まとめ』に書かれていた『人類に感謝』を実践しようとしたタイミングで遂に結果のメールが届いた。

 「今回は不正利用が認められましたのでお客様への請求は全額免除となります。」

 パソコンのスクリーンに向かって合掌し、深く感謝の意を表した。メールの相手・マイケル・エマ・トム・見知らぬサッカー少年・名を知らぬママタレ・ボックスの考案者・B'z、皆に感謝した。人は皆一人では生きていけないのだ、人は互いに依存し合いながら幸せに向かって歩んでいるのだ、そんな大切なことをこの1週間で学んだ、なんてことは毛頭なく、俺はこのエピソードを新鮮な内にさかなにしようと財布とスマホを小脇に抱え友達の待つ居酒屋へ駆けて行った。ちなみに不正利用されていたサーバーは仮想通貨のマイニングに使われていたことが判明した。惜しくもサッカー少年の将来のスピーチに俺の名が連ねる可能性は0となった。

わざわざ読んでいただいてありがとうございます。 あなたに読んでいただけただけで明日少し幸せに生きられます。