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先生

大人になると、先生が居なくなるじゃないですか。
私、自分が先生と呼ばれるお仕事をさせていただくようになってから、いつもいつも私にも先生が欲しいと思ってました。

知らないことや、知りたいこと、正しいのか正しくないのかを教えてくれる存在。
あと、頑張ったことを褒めてくれる存在。笑

先生にも先生がいたらな。

特に先生っていう存在は、生徒の前では絶対に間違えてはいけない職業だと(個人的に)思ってるんです。
これはあくまでも自分(だけ)に対しての覚悟の言葉です。

だから、たとえばダンスの先生をしてる頃の話をすれば、生徒に「踊ってる最中に前髪をいじってはいけない」と教えたとしたら、自分も踊ってる最中に絶対に髪の毛をいじってはいけないんです。何があっても。
そして、そのいじってはいけない理由がちゃんとなければいけない。

今で言えば、私がお客様にお伝えした情報をその方は一生実践するかもしれない。
もしそれが間違えていたら、その方は一生かけて間違えた方向へ進んでしまうかもしれないから、知識をつけて、正しいことを常に見つけなければいけない。
変わったことも間違えたことも全てお伝えしなければいけない。

それが【先生】だと思っていました。

それでも自分が間違えてしまったと気づいた時は、全力で謝る努力をしてきた(つもり)ですが、それも果たしてちゃんと出来ていたのか、出来ていないのか。誰か教えてください。ってたくさん反省しましたが、完璧になんてなかなかなれなかったです。

そんな私は神様からのご褒美なのか、数年前、先生と思えるような人に出会えました。
その人からふと放たれる言葉の中には、今までの自分の経験値からくる当然を、遥かに超えた当然に気づかせてもらえることがたくさんあります。私にとってそれらは時々、悔しかったり耳が痛かったり胸が苦しくなったりするのですが、否定的な気持ちの犯行心ではなくて、その通りだと思えることばかりなのです。

その人が先日、会話の中でお店の「営業時間」について、さらっと言った言葉があるのです。

「営業時間って、我々がお客様と交わせる数少ない約束だから、決めたことはむやみに破りたくない」と。


私もよっぽどのことがない限り、突然に仕事を休んだりはしないけれど、【お客様との約束】という角度から自分の仕事を見たことがなかったです。

私が休まないのは、それは自分の責任感との約束なだけな気がする。
こんなに忙しくても、どんなに疲れていても、仕事を休まずこなしたぞ。という自己満足。ではなかったのかな。

褒められたいのも、許しがもらいたいのも、全部自分目線。


私はその夜、私がお客様と他に交わしている約束はなんだろう?と考えました。

やはりスケジュールくらいしかないんだな、って。

私は自分の仕事としてスタジオを開けてレッスンをするけれど
お客様は、仕事じゃなく日々の生活の中の一部として大袈裟に言えば人生の一部としてここへ来てくれる。
それは極論あってもなくてもいいものなのにレッスンがある。という約束を信じてそこに時間を割いてくれる。
何かの大事な用事よりも優先してくれているのかもしれない。

そういえばインストラクターになった頃、二十歳くらいの私にスポーツジムの社長が「時間を作るということは命を削るということです。誰かの命を頂いているということを忘れないように。大事にしてください。」と言われたことを思い出しました。

その時は、大袈裟なーって思っていたけど、やっぱりその通りだと思う。
そういう仕事を私はさせてもらっているのだな。

責任感とだけ向かい合いすぎて、自分目線で考えた誠意を正しいと思い込んでしまっていたけど、わたしもわたしの先生みたいに、もっとお客様目線で考えられる「先生」、相手目線で思いやりを想像できる「人」を目指したいです。




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