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先回りして決める母【家族の話】

私と母のコミュニケーションは、

母が私の気持ちを想像する

私が望んでいるであろう提案をする
(本当に望んでいるかは確認しない)

という形が多いことに気がつきました。

先日、母がスーパーでロールケーキを買ってきてくれました。私の好きなチョコ味。最近私に元気がないから、買ってきてくれたのだと思います。

5切れあったので、父母兄私がひとつずつ食べると、ひと切れ余ります。

食べたいなぁ…という気持ちもありつつ、なにがなんでも食べたい!というほどでもなかったので、気が向いたら言うつもりでした。

すると、母の方から
「ひと切れ余るから食べていいよ」
と言ってくれました。

そう言ってくれるならと、喜んでもらいました。

今までもこういうシーンはたくさんありました。でも今回は、なにかが引っかかったんです。


私は本当に食べたかったのか?

この件のなにに引っかかるの?と思う方もいるかもしれません。かつての私も「ラッキー!」としか思っていませんでした。

でも今の私は、
自分で決めていないこと
に問題意識を持つようになりました。

食べたいから食べる
ではなく
食べていいよと言われたから食べる
になっているなぁと。


先回りして決めてくれちゃう母

これは、母なりの優しさなのだと思います。

私は、他に食べたい人がいると、自分は食べなくてもいいやと遠慮するときがあります(絶対に食べたいときは遠慮なんてせず全力でじゃんけんをしますが)。

父はなんでも食べるので、余っていたら大喜びで食べます。なくなっていると「あれ!誰か食べちゃったの!?」と言うので、勝手に食べるのは悪いことと刷り込まれているようにも思います。

兄は「一人一個だよ」と言っておかないと、しれっと二個食べたりします。予測不能。「みんなで分ける」という発想がないのかわかりませんが、食べたいと思うと食べちゃうみたいです。

そんな我が家なので、私が遠慮せず食べられるよう、母なりに私を守ってくれているのだと思います。

今まではそれに甘えていたし、特に問題だと思っていませんでしたが、どうやらこんな些細なことでも、積み重なると大きな歪みになるようです。


自己犠牲は愛なのか?

同時に母は、自分を犠牲にすることがあります。

母親とはそういうものなのかもしれません。ご飯のとき、見栄えが良いものを家族に優先的にくれたり、イチゴの個数が均等にならないと自分は少なくていいと言ってくれたり…

母親の愛と言えば聞こえがいいですが、私にはなんとなく、自分を蔑ろにしているようにも見えてしまって…


もしかしたら母は、自分を愛せていないのかもしれない。愛されて育った実感がないのかもしれない。


「私は家族に愛されてきたのだろうか?」
と最近考えるのですが、私を愛してくれるはずの母自身が、愛されてこなかったのかもしれない。

そう思うと、妙に腑に落ちる感覚があります。


どうすればいいのかはまだわかりませんが、いつか母も私も、本当の意味で自分を愛せる日が来るといいなと思います。

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