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『猫を棄てる』から考える親のこと

村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』を読みました。

もともと村上春樹作品は好きでよく読んでいたのですが、こちらはなかなか手に取るタイミングがなく、いつか読みたいなと思っていました。

それが先日、本屋で目にしたときに「あ、今だ」と感じました。

ちょうど反抗期のような状態だった自分にとって、親という存在への関心が高まっていました。他の人にとって親とはどういうものなのか?なにを思い、どんなものを抱え生きているのか?ということを知りたかったんです。


読み終わってから、しとしとと音もなく雨が降っているような感覚に包まれています。

作品の最後に、「広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。」という表現があるので、その印象が残っているのだろうと思います。

でもそれだけでなく、ひとりの人間の人生の一部として語られた戦争や、父と息子の間に流れる空気からなにかを感じ、私の中に留まっているような気がします。

簡単に言葉にすることのできない、輪郭を持たないなにか。無理に言葉にしようとすると損なわれてしまうものもあると思いつつ、このまま忘れてしまってはいけないような気がする…

時間をかけて、ゆっくりと形にしていけたらいいなと思います。


今の私の中にすっと入ってきたのは、これらの言葉です。

「僕と父とでは育った時代も環境も違うし、考え方も違うし、世界に対する見方も違う。当たり前のことだ。」

「おそらく僕らはみんな、それぞれの世代の空気を吸い込み、その固有の重力を背負って生きていくしかないのだろう。そしてその枠組みの傾向の中で成長していくしかないのだろう。良い悪いではなく、それが自然の成りたちなのだ。ちょうど今の若い世代の人々が、親たちの世代の神経をこまめに苛立たせ続けているのと同じように。」


私が生きてきた二十数年は親の人生の一部だし、親が学生だった頃と私の頃とではあらゆることが違う…

頭ではわかっているつもりだったけれど、この作品を読んで、そのことをようやく理解できたように思います。

父や母に対して「わかってほしい」と思っていたけれど、自分が感じていることを他者に完全にわかってもらうというのは、血の繋がった親子だろうと無理があるということ。

反対に自分だって、親が今感じていること、これまでの人生で感じてきたことを正確に理解するなんてできないし、無理にわかろうとするものでもないということ。

そんなようなことを、今の自分は受け取りました。


この作品を読む少し前から、親についてもっと知りたいと思うようになっていました。

父と母が、それぞれどんな人生を歩んできたのか?いつなにを思い、どんなことを考えて生きてきたのか?

親としてではなく、ひとりの人間としての父と母を知りたいという気持ちが湧いてきました。


それは、親に対する怒りをある程度出し切れたからなのだと思います。

先日、24歳にしてようやく反抗期を迎え、これまで抑え込んできた親への怒りがこれでもかと溢れ出てきました。

あまりの怒りに自分でも戸惑いましたが、今までは「親も親である前にひとりの人だから」と自分の怒りを抑え込んできたこと、そのせいで逆に親に対して「親なのに」「親なんだから」となにかを求めていたことに気がつきました。

そして、今まで外に出してこれなかった怒りや不満を認識したことで、初めて本当の意味で親ではない父と母を見つめられるようになったのだと思います。


正直なところ、「親なんだから私にここまで気を遣わせないでくれよ」という気持ちは消えません。きっとずっと残るだろうと思います。

でも、自分がそう思っているということをありのままに認識できたことで、「なんかもう、まあいっか」と、からっとした想いに変わった感覚があります。


親と子というのは、とても複雑で難しく、正解のないものだなぁと思いました。



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