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幽谷霧子とイデアの夜明け【かぜかんむりのこどもたち】

「【かぜかんむりのこどもたち】幽谷霧子」のコミュに触れます。

はじめに

この記事は「【かぜかんむりのこどもたち】幽谷霧子」の「訪い」においてイデア論の限界を打破しようとする試みが描かれているとする試論です。

【かぜかんむりのこどもたち】では一貫して「生誕」について描かれています。そしていつ生誕というeventが発生するかというと、それは光にあてられた時、というような語り口が用意されています。

また、「生誕」とはべつに「飛行機」といったキーワードが頻出します。「生誕」の文脈と「飛行機」の文脈は【かぜかんむりのこどもたち】の【訪い】によって接続され、イデア論の克服へと繋がります。


「生誕」及び「飛行機」について

この章では【かぜかんむりのこどもたち】のコミュを「生誕」の文脈と「飛行機」の文脈に分けて追っていきます。

1つ目のコミュ【風よ風】は霧子が建物内でPと離れ迷子になっているところ、窓から見える飛行機を目印にPと再会を果たす様子が描かれています。

ところで飛行機は乗客を目的地へと輸送することを目的としています。航行する舞台は『空』であり、しばしば『海』を描く作品で語られるように、見渡す限りの大海原は無数の選択肢を表し、それは未来に対する「迷い」のメタファーとして扱われます。同じように空も、見渡す限り青が広がり、その進路は無数に用意されています。しかし、【風よ風】において霧子は、その『空』のおかげで再会を果たす事ができたと語ります。

「遮らないで広がってくれた」という事実は確認したようにしばしば「迷い」の要因として描かれますが、舞台である『空』、道を示す『風』、主体である『飛行機』、そしてそれらを視認する『窓』が揃ったことにより、無数の選択肢は有限に落とし込められ、Pという目的地へと運ぶ唯一の手段として実現しています。

【かぜかんむりのこどもたち】の5つのコミュのうち、『飛行機』は3つのコミュで登場します。『飛行機』をメタファーとして扱っているという点は注意を払う必要がある箇所だと思われます。

続く2つめのコミュ【果てへの旅】では事務所からの帰り際、窓に生き物のようななにかが張り付き、何事かと見てみると結局のところ枯葉が生き物に見えていただけだったというところから話が始まります。

枯葉は風に攫われ、窓から離れていきます。
事務所を出て外に落ちている枯葉を見て霧子はつぶやきます。

「また生まれにいく」、単純に考えれば枯葉とは葉の死骸であり、枯葉が「また生まれる」、「生誕する」とは考えにくいです。ここで「生まれる」という言葉を霧子が「さん付け」をする基準である「背景が生まれるか否か」という観点で見ると合点がいきます。

枯葉が生まれた瞬間、それはまさしく事務所の窓に枯葉がくっついたその時でした。ただの枯葉だったそれは、事務所の窓に触れ、『窓』を通して霧子に「視認」されることで「生き物が事務所に遊びにきた」という物語が生じます。霧子に背景が生じたその瞬間、『枯葉』は『枯葉さん』として生を受けます。

1、2のコミュによってここに『飛行機』と『生誕』の文脈が用意されました。

そして3つめのコミュ【夜間飛行】では、トラブルで霧子が仕事先で一人で一泊しなければならなくなります。

一人での宿泊を終えてPと明朝に合流した霧子は「ほんとは少し心細くて」と語り始めます。

「飛行機が…… 飛んでる音がして……」

【風よ風】において青空を、迷いなく飛んでいた飛行機に対して、夜の帳の中を行く飛行機に、霧子はもの悲しさを覚えています。

『飛行機』は霧子が語っているように「誰かを乗せて進んでいく」という性質上、容易に「アイドル」といった職業と結びつきます。
昼と夜、その最たる違いは「光に照らされているか否か」です。飛行機に自分を重ねる霧子は、光に照らされていない自分を連想し、心細さを感じたと考えられます。では、ここでいう『光』とは何を指すのか、それはガシャ演出によって語られます。

光が差し、その明かりに照らされて霧子が飛んでいます。Pが霧子に出会うことで光が差し、霧子がわずかに飛ぶこの演出は、明らかに『光』を『P』に、『飛行機』を『霧子』に見立てています。

【風よ風】において霧子は暗中の中を光に照らされた飛行機によって導かれ、Pとの再会を果たしました。これはアイドルによって導かれるファンのメタファーを飛行機と霧子によって表しており、【夜間飛行】ではその飛行機の役割が霧子に、霧子の役が霧子のファンに転化して描かれていると解釈できます。


【訪い】

以上、3つのコミュで確認してきたことを前提として、4つ目のコミュである【訪い】を見ていきます。

夜中に事務所に帰ってきたPと霧子はベランダに人の気配を感じます。用心を促すPとは対照的に「大丈夫です」と言ってカーテンを開ける霧子、人に思われたそれは明かりに照らされてできたゼラニウム(霧子が世話している花)の影でした。

可愛い花が、明かりひとつで大男にも思われたことを感心するPですが、霧子はこのことを次のように語ります。

「光を当ててもらったら 色んな命になれるから」

この言葉を受けてPが連想したのが

撮影スタジオでした。そしてPは気づきを得ます。


イデアの夜明け

【夜間飛行】で見たように、霧子はPという光を当てられることで「アイドル幽谷霧子」としての命を授かることができるのでした。ゼラニウムさんが明かりを受けて大男としての生を授かったように、霧子も撮影スタジオで、ライトを浴びることで「アイドル幽谷霧子」としての命を授かっているのだとPは考えます。

ここで「影」に着目して考えてみます。「アイドル幽谷霧子」の主体が「霧子」であるのならば、「アイドル幽谷霧子」とはそれ即ちゼラニウムさんの時と同じように「霧子」という主体によって生じる「影である」という事ができます。霧子はファンを乗せて飛び立つ飛行機としての役目を負いながらも、その飛行機、つまりアイドル幽谷霧子は影に相違なく、人々は霧子の影を見てそこに救いを求めているということになります。

「────そうやって見ると、影ばっかりだな」
「光のあるところは」

そう語るPには、アイドル幽谷霧子の姿が映っていたのではないでしょうか。光あるところに影がある、逆もまた然り、影があるからこそ、その主体の存在を窺うことができる。「主体-影」の図式が「霧子-アイドル幽谷霧子」といった二項対立の関係によって語られます。

イデア論では世界を二元論に基づき捉えます。例えば、可愛らしい花を見て「美しい」と我々が感じるのは、『イデア界』というこの肉体の世界とは違う世界に『美のイデア』、つまり「美の本質」が存在しており、我々はその美のイデアを想起することで現実世界に美しさを感じられるという考え方です。
プラトンはイデア論をしばしば「洞窟の比喩」によって語ります。我々が現実世界で見ている全ては洞窟の壁に浮き出ている影のようなもので、影を見ている我々の背後で太陽によって照らされているそのもの(つまりイデア)こそが本質である、という説明がなされます。

イデア論によって【訪い】を捉え直すと、「アイドル幽谷霧子」は洞窟の壁に浮かび上がった影でしかなく、「アイドル幽谷霧子」に一喜一憂する彼らは真理から遠い人たちということになります。光によって浮かび上がった大男は結局のところ「偽」の存在に他なりません。【果てへの旅】で生き物に思われたそれも蓋を開ければただの枯葉です。影は影でしかなく、そこに命はなく、「アイドル幽谷霧子」はまさしく偶像なのです。

しかし、霧子は違った捉え方をします。

霧子は影に対して「たくさん生きて動いています」と語ります。
【果てへの旅】で霧子は「また……生まれにいくんだね……」と枯葉に語りかけましたが、霧子の内において枯葉が生を授かった瞬間とは、霧子によって認識され、背景を付与されたその時なのでした。

霧子の内において影は、非-本質ではないのです。それは、照らされる本質となんら変わりない生を有しているのです。

そして霧子にも影が浮かび上がります。イデア論に則って言えば、現実世界の全ては「〜のように見える」のでした。本質はイデア界に在るイデアであり、影はあくまでイデアを想起させる「〜のようにみえるもの」でしかありえず、イデアそのものは不可知の領域に位置されます。

しかし、Pは答えます。

「霧子に見える」

イデアに相当する霧子、そこから生じた影もまたPは「霧子」としたのです。つまるところPは「アイドル幽谷霧子-霧子」の二項対立の図式を破壊し、「幽谷霧子」という一つの実体を指し示しました。

霧子という命は、光に照らされることで「アイドル幽谷霧子」といった霧子と表裏一体の「生を宿す」。ゼラニウムさんは確かに大男としての生を宿したし、霧子はアイドル幽谷霧子としての生を宿す。言い換えるならば、「霧子が、アイドルになる」。

だからこそ、影が生を宿すと知っているからこそPは「たくさん、光を浴びてくれ」と霧子に語りかける。霧子に、光を浴びせることができる。霧子を、命をもった「アイドルにすることができる」。

ここで、霧子を照らし出すのがPの役目であることを鑑みると、霧子世界において霧子を生かす存在である「お日様」と同じ役割をPは与えられている。霧子世界の主たるお日様と、Pが同一視される。洞窟で影を見ていた彼らが振り返り、太陽の明かりに照らされていたと気づくそれが、霧子においては太陽の位置にPが鎮座しており、霧子世界における真理としてPは機能する。Pは、霧子にとって真理なのだ。


おわりに

イデア論における二元論の図式に霧子を当てはめ、【かぜかんむりのこどもたち】のコミュによってその限界を打破する試みを描く試論でした。

霧子は明らかに内に霧子世界を有しているのでその全貌を明らかにする感じのやつもいつか書きたいね。霧子が見ているものをもれもみたいので。

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