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巨悪

いったい、人間一人にどれだけ責任を負うことができるのだろう、と考えます。



人が人を殺すなどということは決してあってはならないことです。しかし、人が人を殺すということは、全く自然なことだとも思います。朝の数十分、テレビをつけただけでも、訃報を聞かない日はありません。今日も昨日も、先週、一か月前、100年も昔、カインがアベルを殺したその日から、人一個人が為せる最大の巨悪は、しかしそのスケールに対してあまりにも当たり前に、なんの物珍しさもなくどこかで生じては消えていきます。

屠殺を夢に見たことがあります。健康であればもう十数年は生きようかという動物が、食肉の下に正当化され振り下ろされる刃の餌食となり、ぶるっと身体を震わせ息絶える、その一連の流れを垣間見て、私は壮絶な悲哀と激しいストレスを感じました。
それと同時に、生きるために行われる屠殺と、殺人の間に、いったいどれだけ距離があるのかと考えました。人が人を屠る時、そこにどれだけの大義名分があるのか、そして案外、この二つの距離はそれほど離れてもいないのではないかと。

私は今日までの26年間、一度も何かを殺すという所業に直接的に関与することなく生きてきました。では、ニュースの主役になる彼らと、私との差はいったいなんなのか、いや文字通り、それは『差』でしかなく、全く両者を断絶した壁はそこにはない。ただ、距離があるだけではないのか。私と、動物の差分をとることは難しいです。しかし、私と彼、同じ「人間」という型は算術を可能にし、そして減算によって浮き彫りになる、一本の道が見えるのです。



「何不自由なく」とは言えない家庭に産み落とされた人間は誰でも、一度は本気で自分の生誕を恨みます。「何のために生まれて、何をして生きるのか」考えたくもない問いかけを嫌でも日曜の朝5時半から浴びせられる苦痛といったら。巨大ななにかによって上から抑えつけられ、手も足もでなくなった人生をなんとか履行するので精一杯だというのに。

幸運なことに私の家には幼くして既にゲームがありました。これがゲームではなく本や画材ならまた違った人生にもなっていただろうと思わなくもないのですが、ともあれ、現実からの逃避先という休息地がしっかりと用意されていました。これは全く奇跡的なことで、ここに必然性は一切関与しておらず、ゲームのコントローラーを握るか、はたまた包丁を両手で握るのか、そこの差は、運命によって決されていました。ゲームによって齎された向上心と、後に哲学によって授かった知を愛する精神は、私と凶刃との間を大きく離れさせましたが、物語のはじまりは、私がセガサターンのコントローラーを握ったことで道の反対側を歩き出したというだけで、やはり刃を握ることになった彼らと一本の同じ道で繋がっているという考えを拭うことはできません。

『ウィッチャー3 ワイルドハント』というポーランド初の小説を原作にしたオープンワールドゲームがあります。ローカライズされたパッケージ版が日本においても販売され、他に類をみないほどの膨大な量のサブクエストがこのゲームの世界観に横と縦、それぞれの奥行きを齎し、ストーリーやゲームデザインは今もなお高い評価を受け続けています。

その中に、『悪魔の手が触れる時』といういちサブクエストがあります。このクエストでは主人公ゲラルトが人捜しをすることになりたどり着いた館で、男はどこだと尋ねるのですが、生真面目なゲラルトに対して、当のゲラルトに「殺し屋の一団か、退役軍人の集い」と称された館を根城にする彼らはふざけた態度をとり、ゲラルトを笑いものにします。

https://www.youtube.com/watch?v=J78SuJYvHkk

俺とお前は違う母親から生まれたようだな

悪魔の手が触れる時

ゲラルトの態度を皮肉ったこの言葉に、私の心は撃ちぬかれてしまいました。アンガスと呼ばれたこの男は、ゲラルトと自分の間にある距離のことを言っているのです。「荒くれものたち」とまで呼ばれる自分たちと、そんな彼らをまるで落伍者と対するように高圧的に接するゲラルトとの間が、「違う母親から生まれた」というその端的な事実に収斂しています。

「俺とお前は違う母親から生まれた」、これ以上の事実がこの世にあるのでしょうか。私はいつも、本気で誰かを憎むということができません。それは、なによりも強いこの事実があるからです。私が信じて疑わなかった一本の道が、自分でも気づかないうちに湾曲しだし、出発点で向きを違えた彼と再び相まみえないとも限らないのです。



いったい、どれだけの責任を人間一個に帰することができるのでしょうか。私はいまだにそのことがわからないでいます。いやむしろ、自己責任論を唱える親愛すべき兄弟たちが、なぜ早々に答えを見つけ出し、人を憎むことができるようになるのか、皆目見当もつかないのです。

いや、これは嘘だ。本当は一つ、可能性に気づいてしまっています。

結局のところ私はいまだ、巨悪を知らずにいるからです。

愛する者を失う悲しみ、再起不能に陥るまで尊厳を凌辱される苦しみ、そういった巨悪にいままで一度もまみえることなく、生まれがなんだ貧困がなんだとありふれた悲劇を持ち出して、実に平和に暮らしてきたから、こんなことを言えているだけなのだと、知ってしまっているのです。全身が燃え盛るほどの怒りに奮えて、本気で一個人と対したことがない私の言葉は、中身の伴わない、なんとも空虚で、まるで空っぽの部屋に響く残響のようではないか。


怒りだけが欲しい。ただ、燃え盛るような怒りが、人に生まれるための怒りの炎が。

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