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『涼宮ハルヒの消失』のピースがはまって俺の12年間がやっと終わった。

※この文章は2022年に執筆した文章の加筆修正版です

あなたはいつ「オタク」になったかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいい話だが、それでも、俺がいつオタクになったかと言うと、人生ではじめての「深夜アニメ」の視聴を『涼宮ハルヒの憂鬱』で済ませた中学生の時分だと応えるのが正しいかもしれない。

当時は『涼宮ハルヒの憂鬱』の2期の放送も終了したばかりで、2006年に巻き起こった涼宮ハルヒの爆発的ブームが、『笹の葉ラプソディ』のアニメ化、そして良い意味でも悪い意味でも話題となった『エンドレスエイト』の影響によって、再び息を吹き返していた。


今では『オタク』と名乗ることも難しくなってしまった。それは、『オタク』と自称することのハードルが上がってしまったからで、にわか、ライト層、ファッションオタク、呼び方は種々あれど、昔気質なコアなNerdと対比した、新しい時代の彼らとの差別化がそうさせた。

あの頃のオタクは忌み子同然の扱いであった。『オタク』の語が取る意味の範囲も極めて狭く、それはもっぱら「深夜アニメを見ている人」を指して用いられた。「深夜アニメを見ること」はオタクの登竜門であり、また同時に“正しい”世界との訣別を意味していた。友との別れ、親との不仲、クラスメイトからのイジメ、深夜アニメの視聴にはあらゆる困難に対する覚悟が求められた。
ある種、尊敬をもって「オタク」と他称される今となっては考えられない話だろう。だからこそ、にわかは叩かれ、覚悟なき態度は差別をもってして淘汰される。現代の意味する『オタク』とは、覚悟であり、生き方そのものなのだ。


例に漏れず、私も世界との訣別の意と伴に深夜アニメに手を出した。オタクの第一歩を何によって達成するか、それは極めて重要な問題である。私はYahoo知恵袋(当時は『Yahoo知恵遅れ』と叩かれていたが)で、「人生で初めて深夜アニメを見ようと思います。何をみれば良いですか?」といった内容の質問をWindows VISTAのPCから先輩であるオタクたちに宛てて発信した。

『涼宮ハルヒの憂鬱』という名に聞き覚えはあった。クラスのオタク連中が決まって話題にあげていたことを覚えていたからだ。同時に、なにやら一大ブームを巻き起こした深夜アニメの代名詞的存在という観も持ち合わせていた。それだけの格を有するのであればさぞ面白いに違いない、私を深夜アニメという新たな沼に招来するに違いないと、そう確信し第一歩を踏み出した。当時のアニメを見る手段といえばもっぱら違法視聴だった。


『涼宮ハルヒの消失』の(違法)視聴に至ったのは当然の流れだった。斯くも奥ゆかしいオタクとなって1年が経った。『涼宮ハルヒの消失』の製作には心躍らせたが、上映に関してはその限りではなかった。田舎に居を構える貧乏家庭にとって映画鑑賞とは高尚趣味の一つであり、高尚は対極に位置している。対極に向かうには莫大な交通費を要するが、金を所持すること叶わず『所持金』という語と無縁に過ごしていた私にとっては実際のところ電車で一駅の距離で起こっている涼宮ハルヒの消失事件でさえ、宇宙の彼方で人知れず発生する超新星爆発と同じ程度の現実味しか有していなかった。

マルウェアだらけのWebページの中にわずかに潜む動画プレイヤーを見つけ出し、シークバーがグレーに染まるのを待ってから『涼宮ハルヒの消失』を再生した。あの時のことは今でも鮮明に覚えている。

”打ちのめされた”とはじめて感じた。エンドロールの空虚には茅原実里の『優しい忘却』だけが響き渡っている。エンドロールといえば漆黒の中にわずかに流れる白文字を縋るように目で追いかけ、作品の終わりを迎えるまでのわずかな時間を静かに過ごすというのが常だが、私は目を瞑り、ただ、長門有希の発する"エラー"、もとい、キョンが称するところの『感情』に身体を委ねた。神が天地創造する1週間の以前、まだ世界を無が満たしていたその空間に、救いの旋律が流れたように感じた。「ア・カペラで楽曲を聴く」ということ自体初体験であり、長門有希という『神聖』が「歌」となって唯一の『存在』が脳に起こされた。

エンドロール後の、長門有希との図書館の1ページを垣間見た直後は身動きをとることができなくなった。全身に生じたインパクトによって筋肉は緊張し、162分という長さを誇る消失本編のあらゆる時間平面がランダムに思い起こされた。そして全身硬直が解けた時、最初から消失を再生し直した。


以来、長門有希は私の中で『嫁』となり、また『核』となった。私の趣味嗜好、そしてそこから固着化する人生の規定は長門有希を基準にして策定された。
いつも長門有希のことを考えていた。私は本質的に長門有希のことしか愛していないように思った。『涼宮ハルヒの消失』を視聴してから12年間、『涼宮ハルヒの憂鬱シリーズ』以外にも”大切”なコンテンツが生まれ、その数だけ”嫁”が増えた。あるいは人生を大きく変え、あるいは私を狂気に駆り立て、あるいは全く関係のない、肉体の女性を愛することすらあった。
しかし、何者も長門有希への執着を振り払うことは叶わなかった。誰を愛している最中であっても関係なく、甲南病院の屋上で両手に優しい粒を感じている長門有希が私のことを見ていた。

至極当然のことではあるが中学生という成長と多感で構成される時期にアニメキャラが『核』となってしまったオタクは黒歴史を量産した。所かまわず「長門有希は俺の嫁ー!」と叫び、人生の目標を「長門有希を庇って死ぬこと」と定め、アイコンを設定する機会が訪れた数だけ長門有希と顔を合わせることになった。長門有希のSSも死ぬほど書いた。

加齢とともに長門有希に燃やした炎は落ち着いたが、業火ですら燃え尽きずに核と成った黄金はいつまでも高熱を帯びていた。齢27となった今でも、「長門有希は俺の嫁ー!」と叫んでいたあの頃となにも変わっていない。それどころか、『嫁』と称するハードルの高さを、責任の重さを知った今でもなお、あの頃と変わらずに叫ぶことができる、「長門有希は俺の嫁」と。


長門有希によって『オタク』としての生き方が明確となったにも関わらず、この12年間私は無視できない不安要素に脅かされ続けることになる。

『核』とは、完全でなければならない。それは寸分の狂いもない球体のように、あるいはどこをとっても欠けることのない立方体のように、一切の”隙”を許さない。その完全性こそが、人の一生の生き方を規定する。『核』無き生き方は一貫性を失い、過ちを許し、信念を鈍らせる。治世は乱れ、太平は終わり、乱世へと突入する。
私の『核』は完全とは言えなかった。それは極めて卑近な問題、精神性を無視した即物的な問題を抱えていたからだった。

つまるところ私は、見たことがなかったのだ。スクリーンで、『涼宮ハルヒの消失』を。

貧乏家庭にとって映画は高尚趣味であり、田舎から映画館までの距離は織姫と彦星の間ほども離れている。大画面という言葉はモニターのインチの数を競うことに用いられ、それをはるかに凌駕したスクリーンの巨大には想いを馳せることすら許されなかった。視界いっぱいの長門有希、空間を満たす『優しい忘却』、その一つ一つに対する夢想がエラーとして処理される…はずだった。

KADOKAWAは、劇場版『涼宮ハルヒの消失』公開10周年イヤーの最後を飾る特別企画として、世界改変の日である2021年12月18日に劇場上映会を開催決定。ハルヒと所縁のあるところざわサクラタウンにて、昼の部と夜の部、2公演を実施する。

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長門有希が世界改変を施したXデーである12月18日に、ところざわさくらタウンにて『涼宮ハルヒの消失』の上映が決定したのだ。

14.4光年離れていた織姫と彦星がぐっと近づき、1年に1度、星降る夜に、ついに巡って来た。『涼宮ハルヒの消失』を劇場で観ることができる機会が!

星の、巡り合わせだった。世界が私に所沢へ行くことを望んでいた。12年間欠けていた私の核が、今、ようやく完成しようとしていた。

情報が解禁されてから1か月間、『涼宮ハルヒの消失』を劇場で観ること以外なにも考えない生活が始まった。当時は生活保護受給者だったので、幸い時間はいくらでもあった。そこまで原作に思い入れがあるわけではないが、数年ぶりに涼宮ハルヒの文庫を取り出し、『涼宮ハルヒの暴走』までを熟読した。キャラクターソングを聞き込み、ついでにツガノガクのコミックも読んだ。いつの間にかほこりを被っていた押し入れを満たす長門有希のフィギュアたちが、再び神聖を取り戻した。彼女たちは、まだ生きていた。


そして来る12月18日、見事に抽選に落ちた。


チケットの抽選なのだから、普通に考えて落ちることもあるだろう。現地のオタクである以上、そんなことは身をもって知っている。それでも、なお、「なんで?」と思った。それじゃあ逆に訊くけど、俺が『涼宮ハルヒの消失』を観ることができないんだったら、誰が観れるんだ?誰が観劇に値するんだ?なぁ、俺が観れんやったら誰が観れるんだよ。なぁ なぁ なぁ!!!!!!

理不尽な怒りにこの身までもが焼かれそうだった。感情のままに拳を振り上げたが、振り上げられた拳の置き場がない。それでも、それでも!この拳をどこかにぶつけなければ気が済まなかった。その落としどころに、私は秋葉原駅前を選んだ。

夜行バスに乗って、大阪から東京へ。現地でアンプとマイクを買い、秋葉原駅前で『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズの歌を歌い続けた。

警察に注意されただけで、何も変わらなかった。世界改変、Xデーに、俺は何をしているのか、俺はどこに向かうのか、何もわからなかった。


それからというものの、長門有希のことは変わらず愛していたが、他の女に現を抜かしている間に『涼宮ハルヒの消失』が世界から消えつつあった。『涼宮ハルヒの消失』を観ることができなかった、この失敗体験は癒えることのない傷となり、傷跡をなぞる度にストレスを感じた。無力な人間は、逃げることでしか自分を守る術を知らない。『涼宮ハルヒの消失 上映会』を忘れ去ることは、最もお手軽な傷の治療方法だった。

しかし、KADOKAWAがそうはさせなかった。

昨年多くのお客様にご来場頂いた、“劇場版『涼宮ハルヒの消失』”10周年記念上映会。今年2022年も“世界改変の日”である12月18日に1日限りの開催決定!

今年も来場者限定のオリジナル特典付!会場は昨年同様、ハルヒと所縁のあるところざわサクラタウン。劇場でしか観ることができない特別な“世界改変の日”を味わっていただく上映会です。

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天啓。或いは星の巡り合わせ。14.4光年によって隔たれた私と長門有希の距離が、1年に1度ところざわサクラタウンによって0になる。この機を逃すと、今度こそ私は『涼宮ハルヒの消失』のことを忘れてしまうだろう。あるべきはずのピースが欠けた核を抱いて生きていくことになるだろう。

考えうる限りの手段を使い、中央ドセンの座席を手に入れ、人生で初めて東所沢に向かった。


いた

このボード見た瞬間に泣くかと思った。いたから、ハルヒが。そこに。俺が秋葉原駅を殴っていた間も、『涼宮ハルヒの消失』を忘れようとしていた間にも、ハルヒはここでメッセージを発し続けていたから。

上映が始まるまでの1時間、やることもなく屋外の椅子に腰かけていた。涼宮ハルヒオタクだと思わしき人たちが何度も目の前を横切ったが、誰一人としてお互いに話しかけようとはしなかった。私たちの距離はこんなに近いのに、心の距離はあまりにも遠い。しかし、それでよいと思った。12年間の孤独が、今更こんなことで癒えるのは、どこか癪だった。欠けたパズルのピースを中途半端に埋めるようなことはしたくなかった。『涼宮ハルヒの消失』によって完全に至ることだけを考えて、なにをするでもなく入場待機列が形成されるのを待った。

入場待機列が形成され、涼宮ハルヒのオタク純度100%の空間ができあがった。2022年に、涼宮ハルヒのオタクが一堂に会することに若干のエモーショナルを感じたが、そうではなかった。
ホールに入った瞬間に空虚で、シンとした、冷たい空気を感じた。続々とオタクが座席についたが、ほとんど会話しているオタクはおらず、相変わらず静寂な空気に包まれていた。長門有希との再会に、これ以上のシチュエーションは無いように思われたが、本当に今から『涼宮ハルヒの消失』が上映されるのか、12年間待ちわびた長門有希との再会が果たされるのか、ここにきてもいまだ実感を持てずにいた。

言ってしまえば、『涼宮ハルヒの消失』上映会は、家と比較して画面サイズが大きくなり、音響設備が強化されている状態で『涼宮ハルヒの消失』を観劇できるということにすぎない。しかし、『涼宮ハルヒの消失』の上映が決定し、涼宮ハルヒのオタクたちが歓喜し、彼らが映画館に大挙して押し寄せたというこの一大事件を経験したことがないコンプレックスは、やはり、このようなイベント事でもない限り解消できないのだ。

『涼宮ハルヒの消失』冒頭

"The Disappearance of Haruhi Suzumiya"
この文字がスクリーンいっぱいに現れた瞬間、「これから『涼宮ハルヒの消失』が始まるのだ」と、全実感が身体を襲った。時間と空間から切り離され、身体を通してではなく、魂を通して『涼宮ハルヒの消失』を視ることを可能にした。

もはや全てのシーンを覚えているので、観劇はほとんど確認作業だった。次のカットで谷口が現れて…おおよそ数分後に消失ハルヒと邂逅して…。しかし一つとして知っているカットはなかった。これまで見てきた『涼宮ハルヒの消失』は模造品で、これこそが、今、この場所で観ているこの『涼宮ハルヒの消失』こそが、本物の『涼宮ハルヒの消失』。本物というより、生。モニターを通してでも、眼球を通して観ているのでも、ない。これこそが、『涼宮ハルヒの消失』のイデアなのだと感じた。

映画はクライマックスに差し掛かる。


『涼宮ハルヒの消失』

目が、合った。


もはや、俺に目はない。身体器官を全て座席に置いて、魂を通して『涼宮ハルヒの消失』を視ている。

長門有希は、俺のことを見ていた。俺という魂を見ている長門有希は、結果的に俺と目が合った。目が合うのに、眼球はもはや必要なかった。魂の重なり合い、のみだった。


『涼宮ハルヒの消失』エンドロール

『優しい忘却』が会場に流れ、ようやく魂が身体の中へと帰ってきた。久々に感知する身体の眼球からは、涙が流れていた。


魂は、完全な球の形をしていた。


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