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哲学#012.どうせ死ぬのに、なんで生まれてくるのだろう。

私事で恐縮ですが、私は過剰に世間体を気にする家庭で育ちました。両親は本音を隠して生きていましたから、生きていることが楽しいはずはありません。子どもながらに「生きることは辛いことなのだ」と感じていました。

小学生のころの私は、近所の子どもたち数人で、丸太が積み上げられた山が20ほどあった近所の丸太置き場で日暮れまで遊ぶのが放課後の日課でした。大人の目が届かない隠れ家というか秘密基地のような空間があり、そこでいろいろな遊びをしていました。
そこで駄菓子を食べながら話をしているとき、ふと私は「どうせ死ぬのに、なんで生まれてくるんだろう」と言葉を発しました。
すると友だちが「思い出を作るためさ」と即答したのです。
なんだかとても可笑しくて、みんなで大笑いしました。なぜ可笑しかったのか理由はわかりませんでしたが、とても可笑しかったのです。
いま振り返ってみると、それがある意味「真理」だったから可笑しかったのではないかと思えます。みんなは無意識にそれを知っていたように思えてしまいます。

私たちが遊んでいた丸太置き場の丸太の太さはこの6倍ぐらいありましたが、置き場のイメージはこんな感じでした。

そのころの私は、なぜ辛いこの世に生まれてきたのか意味がわからず、何をするのも面倒くさいと思っていました。
だいたい朝起きることそのものがなんとも面倒くさいのです。「人はなぜ起きなければならないのか」と心底疑問に思っていました。しかし、寝たままでいるとおなかが空きます。しかたがないので起きていました。
 
もし私が大金持ちだったら、執事が「お嬢さま、お目ざめでございますか?」とかなんとか言いながら、朝食をベッドへ運んできてくれるところでしょう。
けれども残念ながら私はそんな身分ではありません。人類の大多数の人々と同様に、労働しなければ食べ物を口に入れることができません。一日中寝ているわけにもいかないのです。
ちなみに、そのころの私の愛読書は『小公女』でした。間違って貧しい暮らしを強いられた少女が苦労の末、最後には大金持ちの身分に戻るという物語です(笑)。

『人は生まれる時と場所を選ぶことはできない』

人生とは不条理なものです。そもそも私は自分で望んで生まれてきたわけではありません。生まれてきてしまったこと、まさにそのことが私にとっては不条理なのでした。
生きるということは、なんと面倒くさいことなのだろうと思っていました。食事をとることさえ面倒くさく思うことがありました。さらに息を吸ったり吐いたりするのさえも面倒くさく思うこともありました。
そんなふうに思うのなら、いっそのこと死んでしまえばいいではないか、と思う人も多いでしょう。ところが厄介なことに、死ぬことさえも面倒だと思っていました。私は。

1960〜70年代のサブカルチャーを代表するシンガーソングライター高田渡氏が蚊取りマットのコマーシャルで「生きているのが面倒だ〜。しかし、死ぬのも面倒だ〜。あ〜面倒だ〜」と歌っていたことがあります。私は自分と同じようなことを思っている人がいることに、妙に安心したりしていました。
また、親に向かって「なぜ生んだ?」と問うて叱られた経験がある人も多いのではないでしょうか(笑)。

人はどうせ死ぬのに、なんで生まれてくるのだろう

どうせ死ぬのに、わざわざ生まれてくる。これはまったくにかなっていないのではないかと思っていました。
生きるのも面倒、死ぬのも面倒、そういう人間にとっては「なぜ生まれてきたのか」、このことが最大の謎となり、まるで影のようにいついかなるときも自分に寄り添っていることになりました。

仕事がうまくいかないとき、失恋したとき、お金がないとき、「なぜ自分は生まれてきて、こんな辛い目にあわなければならないのだろうか」と空を見上げて神さまに恨みつらみを言いたくなりました。
逆に、仕事がうまくいったとき、素敵な人に出会ったとき、美しいものを見たとき、そういうときは「生きていて良かった」と思うのも事実でした。

また皮肉なことに、苦しみがなければ喜びという感覚も人間にはないのがわかってきました。人間は複雑です。不条理です。人間は苦しみ喜びの波間を漂いながら、そしてある日あるとき必ず死ぬ。この営みに何か「意味」とか「価値」とかがあるのでしょうか。

スピリチュアル界隈ではよく「人は生まれるところを選んで生まれてくる」と言われます。なぜかというと「この世で修行するため」と。
何か辛いことがあった場合、「この体験から学ぶために生まれてきた」と思うと、確かに慰められることも事実です。一理あると思います。ただ、具体的に「何を学ぶ」のか、それを掴むことが重要だと思います。慰められただけでは「意味」がないのです。
愛を学ぶために生まれてきた」と言う人もいます。それも、「」という言葉が具体的に何を指すのか、やはり考えなければならない課題だと思います。
また、親に虐待されて幼くして亡くなってしまう子どもや、戦争で亡くなった人々のことを思うと、それをわざわざ選んで生まれてきたということになると、「そこまで悲惨な経験をしなければ学ぶことができないのだろうか」という疑問が湧いてきて、それを無邪気に肯定する気にもなれないのも事実です。
というわけで、そこで思考停止するわけにはいきませんので、哲学を続けようと思います。

で、生物学的な観点からみると、「」については最近「アポトーシス」という考え方がにかなっているとされてきています。
アポトーシス」とは、簡単にいえば「生物個体の生命を維持するために制御されて起こる細胞死」のことです。
つまり、生命を保つために人間の細胞は日々新しく生まれていますが、細胞が新しく生まれるためには、古い細胞は死ななければならないわけです。古い細胞が死ななければ、人間は人間の形態を保つことができなくなるのです。
そして、そのバランスが狂ってしまったのがガン細胞です。ガン細胞は不死なのです。不死であるがために、人間の生命活動を阻害するわけです。

そのシステムを人類というスパンに拡大して考えてみると、人類が生き延びるためには新しい人が生まれる必要があり、そのためには古い人(老人)は死ななければならないということになります。
新しい人を生むために、人類は男と女に分かれて様々な組み合わせで生殖を繰り返しています。なぜかというと、なるべく遺伝子の組み合わせをを多様にしておいた方が、どんな環境の変化が起ころうとも適応できる可能性が増えるからなのだそうです。
つまり、世代交代を頻繁に繰り返した方が、人類が発展できる可能性が大きくなるというわけです。

人類を発展させるために、人類は「私の死」を選んだのです。つまり、私は人類のために死ぬというわけです。「ああそうだったのね」と納得したいところですが、私はどうしても納得できません。
私は単なる水とカルシウムと有機化合物の集合体ですか? 私はDNAの自己再生のプロセスのひとつにすぎないのですか? ただ機械的に子孫を残していけば、それでいいのですか? もしそうだとしたら、なんだか私はみじめです。

そもそも私には、人類の発展が、それほど重要なことだとは思えないのです。私は人類が発展することに「意味」や「価値」を見いだすことができません。それよりも「」や「あなた」が「納得」できる人生を送ることができることの方が重要だと思うのです。
もし、人類の発展のために「」や「あなた」の人生が納得いかないものになるのであれば、人類なんぞ滅んでもいいのではないかとさえ思います。

というわけで、子どものころからしつこく「なぜ生まれてきたのか」と問い続けてきた私ですが、その過程で「死を恐れる」ことを「思い込まされている(プログラムされている)」と思うようになってきました。
どういうことかというと、「」には二通りあることに気がついたのです。一つは「老衰や病や自然災害による死」、もう一つは「他者の手による死」です。
あくまでも自然の流れによる「老衰」「」「自然災害」については、私はいまでは受け入れるのが自然と思うようになっています。自分の体が限界に達したのであれば、それはそれで仕方がないと思っています。無理にあらがう気はありません。自然災害も、運悪く巻き込まれてしまったら仕方ありません。諦めるしかありません。ただし、人災は別です。なぜなら、人災は「他者の手による死」だからです。

つまり、自分の人生はできるだけ自分でコントロールし、自分の力が及ばなくなったのであれば、それを「受け入れる」という自分なりのロードマップがあり、それを他者に邪魔されるのはまっぴらごめんということです。
なぜそう思うのかというと、やはり生まれてきたからには、自分が自分の人生の主体であること、自分の「納得」を大切にすること、自分の「尊厳」を守ること、それが人間にとって重要なことだと気づいたからです。
生まれてきたことと「納得」と「尊厳」は深い関係があると思うのです。

それに気づいてから、私は生きることが面倒でなくなり、人生ゲームを楽しむ余裕も出てきました。「老衰や病や自然災害による死」は怖くなくなりました。「他者の手による死」については怖いですが、徹底的に戦う「覚悟」ができました。
不老不死」などという考え方も滑稽に思えます。むしろ「老いの末に死なないと困る」とさえ思います。なぜなら、たとえ「不老不死」になったとしても、苦しみ・辛いこと・厄介な問題は相変わらず生きている限りやってくると思うからです。いったいいつまでそれを繰り返すのでしょうか。時期が来たら「卒業」するという選択肢があってもいいのではないでしょうか。たくさんの「いい思い出」でいっぱいの「心の王国」【※1】を抱えて「ああいい人生だったなぁ」と思いながら死ぬのも一興ではないかと思うのです。

                                     

※冒頭の画像は細胞の「アポトーシス」を表現したものです。

【※1】心の王国」については、拙稿「哲学#005.心とは何か。」をご参照ください。


【後記】
いまにして思えば、私は過剰に世間体を気にする両親を反面教師にして、自分軸を保ちながら世間と付き合っていく生き方を学び、それなりに楽しい人生を送ることができています。いまはその問題に気づかせてくれた両親に感謝しています。生きるって、ほんとに不思議です。
次回は、生まれてきたことと「納得」と「尊厳」が深い関係がありそうだという根拠について語ってみようと思います。これは人生ゲームの攻略キーワードかもしれません。

 【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考え、心で感じ、自分で調べること
2. 強い体と精神をもつこと
3. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
5. 人の役に立つ仕事を考えること
6. 国に依存しなくても生きていける道を考えること(服従しない)
7. 良書を読み、読解力を鍛える(チャットGPTに騙されないため)


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