東京無景 最終話(BL)

ハタチを過ぎてから付き合った。

浪人した大学二年生と絵描きのタマゴ。
お金なんてなかったから、彼とのデートは公園で寄り添うだけ。
男同士なにやってんだ。
だけどその穏やかな時間は決して嫌いじゃなかった。

やがてモラトリアム大学生はサラリーマンになり、絵描きは筆を捨てて肉体労働。
でも、そばにいられるだけでよかったんだ。

半年ぶりの電話だった。親があまりにしつこいため、見合いを約束させられる。

「いつ帰ってくるの?」
「明後日かな」

送られてきた写真に、可愛い子だねって雪流は言った。状況わかってんのかなこいつ、見合いが成功したらこの家追い出されるんだぞ。
だけど雪流はいつも通り穏やかだった。

香坂清子、古風な名前。

「基晴、古風なの好きじゃん。合うかもよ」
「……雪流」
嫉妬とか泣いたりとかすると思った。
雪流の本心がわからない。

故郷に帰る前日のことだった。
「雪流、ほら熱計ってみろよ」
雪流が風邪をひいて寝込んでる。
「……雪国の氷ってどんな味するの?」
ぽつりと雪流が問う。
俺の故郷のことを言っているのか?

「別に氷は氷だよ」
「いつか、食べてみたいな……カキ氷のシロップかけてさ」
熱で赤い顔をしながらまるで夢見るように雪流は呟いた。

「いってらっしゃい」
翌朝始発の新幹線で故郷へと旅立った。
結局雪流の風邪は治らなかった。
それでも雪流は気にせず故郷に帰るようせかすから……。
ほんの数日間だ、すぐに帰る。
そう雪流と約束を交わして。

見合い相手は綺麗な女性だった。
礼儀正しく、ひとめぼれとまでは行かないけれど、惹かれるところがある。
もう少し彼女のことが知りたい。
雪流の笑顔が浮かんで消えた。

「もしもし」
電話口の雪流は思ったより元気そうな声をしていた。
用件だけ早口で伝える。
「帰るの一日伸ばすから、よろしく」
……雪流は何も言わなかった。

もしかしたらこのまま俺は彼女と結ばれるかもしれない。
そして、その感情は確信となる。

結局三日遅れて帰宅した。
雪流はそんな俺を笑顔で迎える。風邪はまだ治りきっていない。背中を丸め咳き込む雪流がなんだか気まずくて、俺は彼の目が見られなかった。

深夜、隣の布団で雪流が寝ている。
その背中に触れることすら躊躇していた俺に気がついたのか、雪流が寝返りをった。大きな目、俺だけを見ている。

「……僕は君を束縛したくはないんだ」
「雪流?」
雪流は俺を見ながら悲しそうに微笑んだ。

「見合い相手の女の子、気に入ったんだろう?」
雪流の手のひらが俺の頬を撫でる。

「基晴、幸せになりなよ」

男と女、結婚して、子どもが生まれて……そんな簡単な幸せが、雪流と俺では手に入らない。

「……いいのか、雪流」
これから離れて暮らすことは。
「君の幸せのためならこの手を離しても構わないよ」

雪流は笑っていた。
いま、離れようとしている俺の顔を見て、涙を流しながら微笑んでいた。

翌日、朝起きると雪流がいなかった。風邪薬のシートは転がったまま。
風邪すら治る前に、雪流はこの家を出て、あっけなくどこかに消えてしまった。

それから一年、故郷で結婚式をあげた。
清子は美しく、自分の意見をはっきり言う女だった。そのためか、多少わがままなところがある。
それでも俺は誓い合った将来を失いたくはなかった。

雪国の春、家の庭になかなか溶けない氷。雪流が憧れたカキ氷シロップをかけたら、それは本当に美味しいのだろうか。

……彼はいまどうしているんだろう。

新居の壁に、お揃いだったマグカップが投げつけられる。破砕音とともに清子のわめく声。いもしない浮気相手に対して嫉妬している。

俺はそんなに疑わしいか。

「……僕は君を束縛したくはないんだ」
雪流の言葉を思い出す。
悲しげな微笑みの中は、雪流のそこはかとない愛情で溢れていた。

いま、ここに雪流がいればいいのに。
けれど今さら思い出しても、それはもう遠い過去の話。

それから一年、東京に帰ってきた。
清子と離婚が成立し、俺はまたひとりになって。清子と俺を知っている故郷が煩わしくて、清子のことはもう忘れたくて……再び誰も俺なんか知らない東京で生きていこうと。

記憶を辿って歩く住宅街。
確かこの突き当たりにあったはず。
それは俺と雪流が過ごしたアパート。
だけどかつてのその場所は跡形もなく消えて、コンクリートの敷かれた駐車場になっていた。

「雪流」

……会えない。
もう二度と雪流には会えないんだ。

思い出は俺たちの住んでいたアパートのように、儚く崩れて消えていった。

駅前のカフェでタバコを吸っている。
さぁ、これからどうして生きて行こうか。
東京には可能性がある、そしてまた絶望も。

雪流を失ったいま、俺の前には絶望しかない。

「馬鹿だな、俺」

本当に大切なものからは手を離してはいけなかったのに。

どこにも行くあてのないまま、孤独の東京が過ぎていく。

結局、その日はどこにも行く場所がなくて終電を逃した。仕方なく駅前をうろついている。
この駅も随分きれいになった。

植木の前には作品を広げる路上アーティストの男。いつの時代も彼らはこうして夢に生きるのか。

長い髪のアーティストは何枚も絵を飾っていた。一枚の絵を手に取る。
「お兄さん、それは売り物じゃないよ」
……売り物じゃないものをこんなところに広げるなよ。だけど他の絵をみると、そのタッチに見覚えがある。

あの頃、何枚も何枚も床に散らばっていた練習作。

「あ」

彼の長い髪の隙間から、大きな瞳が見えた。
見覚えのある長いまつげ。

「ああ……」

一陣の風が吹き、彼の顔が露わになった。
見覚えのある、優しい瞳。

「基晴、雪国の氷……持ってきてくれた?」

「……いや、お前と一緒に食べに行こうと思って連れに来たんだ」

雪流。

長い髪以外にはなにも変わっていない。

「ここにいればいつか基晴に会えるかと思ってた」

よく見ると、雪流の広げていた絵は全て俺の顔。

勢い余ってそのまま抱きついた。
雪流の感触、忘れてなんかない。

「雪流、雪流……!!」
「なに泣いてんの、基晴……」

そう言う雪流こそ泣いていた。

「カキ氷のシロップ買いに行かなきゃね」

遥かなる東京。

もう見失ったりなんかしない。
ふたりで生きていくこの道を。

(おわり)

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