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アリスの鏡(幻想系・短編小説)



鏡に手を当てたら霧のようにとけた。そのままからだごとすりぬけてゆっくり入る。目をつぶって、顔から浸けて手を差し出して前をさぐりながらゆっくりと足を踏み入れる。大きな鏡だ。目を開くと重々しい書斎の中に立っていた。

鏡ごしに見たときは同じなのに、こうして入ってみればそこはまるで違う場所だった。

どこがどう違うのか、腕を組んで粗を探すように四隅から窓の外まで眺め渡す。誰もいない。音はすべてそこかしこに厚く浮かぶ空気の層に吸い取られてしまう。鏡を抜けたときの霧がまだもやのようにわたしの周囲にまとわりついている。

振り払うようにして、ぎっしりと詰まった本棚の硝子戸を開けた。

背表紙に指を走らせる。目を凝らした。あれもある。これもある。一冊を手に取ってめくった。アリスの国にあるように、さかさ文字で鏡に映してみなければ読めないということもないから、じゃあこれは読めるのか。本格的に腰をすえようと革張りの一人がけソファにうずもれた。ぜいたくなつくりだった。

柔らかいスプリングがさっきの霧にも似て無音で体を受け止めたとき、厳しい声が鏡越しにささやいた。

そっちでじゃだめ
こっちで読んで

仕方がないので、せっかく深く腰かけて落ち着いたところをまた体を起こして、鏡の方に向かった。本から目を離さないまま、おぼつかない足取りで。
面倒臭いな。

ぼんやりとしたもやのような鏡を抜けて振り返ると、そこにはいつも通り二重写しになった部屋がある。
ほとんど物のない空っぽの部屋に雑然と積み重ねられた本の群れだ。
ここにも本。あちらにも本か。見慣れた場所のはずだ。いや、本当にそうか?

どちらから最初に来たんだったかな?

漠然とした不安は、それでも黒々とした澱《おり》にはならない。
気紛れで吹いたシャボン玉さながら漂いながらふわふわと音もなくはじけて消えてしまう。
どちらがどちらでも、わたしはきっとわたしの中にある頁をめくる手を求めてこの鏡をくぐるだろう。

相変わらずページから目を離さないまま、壁に背中を預けて足を伸ばした。
壁は厳しい声のぬしの腕のようにわたしを受け止めた。
そうかあの鏡はこの本で、かたちを変えただけのことなのだ。
いま、それがわかった。
行きっぱなしではいけないという。だからあの人はこっちだと言ったのか。

あの声が聞こえる間は大丈夫。
まだ、大丈夫。
安心してわたしは次のページをめくった。
ここも無音であることに、気付いているのに気づかないふりをしたままで。


おわり




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