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モノクロームカフェ またの名を、ちびブタ彼女とその一生 5(中編小説)



6. 溶け合う時間


西条花実は控え室のパイプ椅子に座って頭を落としていた。ぶらぶらさせている足元のタキシードのすそはもうひきずっていない。
さっきまで高揚していた気分は、また風船がしぼむように花実から抜け出てしまっていた。
逃げ出したい。ここから。すべてから。

男ぶりが評判の叶江の従弟は、来なくてもいいのにこんな衣装あわせの場にまで押しかけてきて言う。
「おじさん、叶江ちゃんが可哀想だよ」
体に合わせて仕立てたスーツはぴったりといかにもスマートに映る。
ちょこんと座ったまま、花実は哀れっぽいよこ目で美しい婚約者を伺った。
まぶたをふちどる長いまつげに覆われた黒目が壁の上の一点を見つめている。心配そうに見守る彼の心とは裏腹に、特に物憂げというわけでもなく、何かを心配している気配もなく、ただ単に疲れたので休んでいる風情だ。
花実はその目が好きだった。

「はっきり言っていたよ。恋愛結婚なんて興味ございませんとね」
「しかしいくら美人でもあの性格はちょっと無理だ。でも君は悔しがっているんだろ」
「気分はもう、勝手にしやがれですよ」
そんなささやき声も、叶江という目の前にあるその一つの視線の前で雪のようにとけて消えて行く。

花実にとって叶江は美術館の額縁の中、雑誌の紙面、またはスクリーンの向こうにあるようなよそよそしい、手の届かない存在では決してなく、もっと親しく近く、よく見知った一人の人間だった。何しろ幼稚園から一緒なのだ。
「叶江ちゃんはきっといやがらないと思うわ」
結婚を言い出したのは彼の母で、父親は及び腰だった。叶江がまさか承諾するなど周囲の誰一人思わなかった。
花実は考える。叶江はどんな生活を望んで恋愛結婚を否定したのだろう?お嬢さん育ちにふさわしい奥様生活か?この見るからにでこぼこな二人、だれが見ても笑う滑稽さに見合うだけの何が彼にあるだろう?
実家の懐具合ならば知っている。いい縁談とはとても言えない。

母親から借りたというふんわり広がったスカートがソファ一面を覆っている。部屋のソファに靴を脱いだ片足を上げ、半ば横座りになって頬杖をついていた。
言わなければならないと決めていた心がしおれる。
勇気を出して花実はおずおず呼びかけた。
「ねえ、叶江ちゃん」
「なによ」
叶江は壁に向かって答えた。
「そのう…」
「なーに」
「ええと…」

ぱっと体を起こして叶江は足をソファから下ろした。花実の真正面を向き目をまっすぐ見て詰問した。
「何が。はっきりしなさいよ」
「大丈夫なの?どんどん話が進んじゃってるけど本当にいいの?」
叶江は目を大きく見開いて、意外にも面白そうな顔をした。
「何よ、あんたやめるつもりなの?一丁前に」
「違う違う。でも、こんなぼくで本当にいいのかなって…」
「ばか!ブタ!」

叶江は起こした体をこちらへまともに向けて、手をソファの両脇についた。スカートがはね、スプリングががきしむ。
「私はね、はっきりしてるから。頭のてっぺんから足の先まで。断るってなったら誰が何と言おうとことわります!」
勢いに飲まれて(いつもそうだったが)花実の体には緊張が走り、小太りの肩から上半身はぎゅっと縮こまっていた。
「家のことなんか知ったこっちゃないから。関係ないって放り出しちゃえる」
鋭い叶江の言葉を反芻するのがやっとで、頭の中で必死で何度か繰り返すうちに緊張がとけていった。

「いい、わかった?」
言いたいことを言いたいだけ言ってしまうと叶江はまたカウチ風ソファに横座りになった。パンプスはすべて脱ぎ捨てて、両足をソファに上げている。
断るなら断ると言った彼女にわずかな迷いも見られず、花実はそばに走り寄ると思わず手を握った。
叶江は振り放しもせず偉そうにつんとして手を握られるままにしている。
ありがとう、ありがとう!大好きだよ、かなえちゃん。一生大事にする。何でも言うこと聞くから」
「当たり前!」
ぴしゃっと跳ね返るように返事が返る。
「私はどんな王子様でも相手に出来るって言われていたんですからね」

どこからともなくカラカラと乾いた音がして、叶江の声にそっくりな、でももっとおっとりとした優しいトーンの声が降り注いできた。
──とっても仲良かったんだよ、おじさんとおばさん。いつだったかお父さんがおじさんに聞いてたんだよ。
「叶江のどこがいいの?」
「わがままなところがないから」
「はっ?わがままのかたまりでしょ?あいつがわがままじゃなかったら何なの?」
「あはは」
「あははって」
「女の人って、僕はこわいんだ。陰口言うし意地悪だし、お遊戯の時だれにも手をつないでもらえなかった。でもかなえちゃんはブタブタ言うけどずっと普通に接してくれたよ」

小さかった真亜子は遊びながら何の気なしにそんな父とおじの会話に耳を傾けていた。
思うにきっと同じブタ野郎でも、花実おじさんには咲菜の彼にあるような、堂々と自己表現出来るような自己主張はまるでなく、どこまでも内気で外に出るのをきらった。

「女の子ってみんな、自分のわがままを棚にあげて人のわがままを非難するんだ。そう思ってた。だけどかなえちゃんはほかの人のわがままのことなんて言わないんだよ」




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