Vol.1 日記

“1番大切な約束は、言葉では交わさない”

『海獣の子供』より

海に対して抱く感覚の話。
砂浜で海を眺める時間は、なぜあれほどゆっくりと流れるのだろうか。

二つ目のコラム。
全くもって関連性のない話かもしれないが、
夜の海に対して抱く感情についての言及から、自分の中にある海への感情を書き起こした。


日本人の多くが、海をはじめとする黒い水の塊に対して、
底知れない恐怖(畏怖に近い?)の感情を持っているというのは、理解できる話だろう。

自分は海に対して、あの「怖い」感情とは別のノスタルジックな感情を抱いている。
ここでいう「海」とは、湘南のガチャガチャしたビーチでも、宮古島の透き通る浅瀬でもなく、うねる外洋の黒い海である。無限の質量の塊のような、それでいて“何も無い”かのような、黒い海である。

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幼いころから、海の生き物たちの図鑑を眺めるのが好きだった。

イルカや、小さな魚群はもちろん、かたちのおかしなヒトデやサンゴなど、
おそらく生では見ることのない生き物ばかりだった。

中でも、ひときわ目を惹いたのは、大きな体で優雅に生きる生き物だった。哺乳類に近い生き物だ。

マンタ、ジンベエザメ、クジラ、シャチ。

雄大に生きる海の獣たちに対して、
なんとも言えない畏怖の感情を抱いていた。

これはプラネットアースの影響かもしれないし、
『ダーウィンが来た!』かもしれない。祖父母の家に行くといつも録画してくれていたそういったドキュメンタリーの記憶がそうさせたのかもしれない。

そんな幼少期を過ごしたことで、多くの生き物に関する夢をみた
ワニに襲われたり、近くの山に恐竜がいたり、なぜか

中でも、一際つよく、繊細に胸の中にある記憶がある。


あれほど畏れていた真っ黒い塊の中を、大好きな獣の、クジラの背に乗って旅をした夢である。


特別海にルーツがあるわけでも無い。
泳ぎが得意なわけでもない。

なのにあれほど鮮明に、ソングを聞きながら海を旅する情景や肌を滑む水の冷たさが、目の前に体験として現れたのだ。

『鯨に乗った少年』の影響か
あるいは、鯨の潜水時間を知ったあの日の学びに誘引されたのか。

歳月による記憶の修繕や美化を経て、
今もその記憶が、自分の生命への価値観に今も色濃く紐づいている。

あの夢の中で確かにクジラは水面に上がって呼吸をしていた。
潜るほどに水は暗く、冷たくなっていった。


別に何の役にも立たない些細な思い記憶だが、
多くの作品に触れる中で、こういう記憶がその作品の憧憬と紐づいて味わい深いものになる感覚を、20代になって強く感じている。


冒頭で引用した『海獣の子供』

自分の価値観や幼少期の生き物たちへのあこがれや畏怖をきれいに言語化したような、そんな作品だった。

言葉にすると、言葉にならない部分がなかったことになってしまう、
そんな感覚は生きていく中で何度も何度も体験したことがある。

人間はすべてを知っているかのように振る舞い、
あらゆる生物の頂点に君臨しているかのように繫栄している。

地球上でもっとも繁栄しているのは昆虫で、
単一種であればオキアミ。

人間など数でいえば微々たるものであるにも関わらず。

"「海で起きるほとんどの事は、誰にも気づかれない」"

『海獣の子供』より

実際には人間はこの世界のほんのわずかな部分しか解明していないし、
人間のいなかった時代の世界からすれば、多くのものを壊し、消滅させてきた。


モーリシャスで座礁したタンカーが、あの美しいサンゴの海を真っ黒な油の塊に変えてしまったのも記憶に新しい。

人間はそういう高度な文明のおかげで楽をして生きるようになった一方で、
大切なものを多く失いすぎている。

社会性の高い生物として、そこに発展する手段があるならば、
より技術や科学を発展させる道を集団として選択していくことは、
ある種「生物的」であり、本能に近い行為なのかもしれない。

いまからこの進みゆく発展を止めることはできないだろう。


だからこそ、この幼少期の海の記憶や、
生き物たち、生物たち、そして地球に対するあこがれと畏怖を、
後生大事に生きていきたい。

その感覚を共有できる人とかかわりながら生きていきたい。


海に対する感覚は、こういう作品たちのおかげで人生観の一部にすらなっている。


脱線に脱線を重ねたが、最後にクジラにこじつけて、
大好きな作品を紹介してこの駄文を締めることにする。


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