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もうすぐ/それでも私は働きたい

もうすぐ

2021年は40歳になる。思い切ってジョブチェンジして2年経過した。
知識や経験も浅くてまだまだ全然余裕ないけれど「継続することに意味がある」と思い込んで少しづつ頑張っている。20代30代は、40歳になった時の自分は想像が出来なかったけれど、最近は母の事を思い出して今の自分の生活と照らし合わせることが多い。ただそれに深い意味は特になくて「あー私も長く生きたなぁ」という実感のみ。この先どういう事が待ち受けているなんて想像ができない。なる様にしかならない。出来る事をしていくのみ。という諦めに似た感情だけが手元にある。

2020年の39歳は、自分は何をしたいのか?想いはなんだ??とかいう
キラキラしたワードに真っ正面から立ち向かうことになるとは思わなかったし
新しい仕事を覚えて生きていくことになるとは思わなかった。
若い方のエネルギーや優秀さに日々感化されながら刺激的な毎日を送れることはとてもありがたく、なんだかんだ幸せで楽しい職業生活を送れた。わたしの全てはいつも職業生活をどう送れているか?ありきで進んでいくので、生活の悩みも家族の悩みも、お仕事順調で夢中で楽しければ無いも同然。
出産した時からずっと呪いの様に考えていた「絶対もう一度、正社員で仕事する」という謎目標も7年がかりで達成した。「正社員」なんて手段であり「目標」にすべきでは無いのでは?という疑問もあるけれど、そういう風に出来ているからそれに乗って行く。乗ってから考える。

それでも私は働きたい

産後はずーっと「働き方」について悶々としていて、働くって何よ?マジで!私たちは何で働こうと思うんだ??何で働きたいと思うんだ?
と、自分自身が、異様に「働くこと」に固執しているためか、ずっとずっと頭の中でぐるぐるしていた。

子供が生まれて、育児子育てをしても「働きたい」と思うし、生活スタイルや、自分の体調、家族の状況が変化して、仕事に割ける時間が変化しても、何とか働こうと動いている。現実問題「お金のため」「生活のため」という事なのかもしれないけれど、冷静に考えれば、お金のために働くエネルギーを持ち続けるより、家庭の収入に合わせた方向に生活をシフトしていく方が効率的だと思う。もっと言えば日本に住む限り「人として最低限度の生活」は保証されている。働くことができなくても生きることは出来る。
だけど私はあえて「はたらく」事を選択して、働き続ける。稀に見るマゾ体質なのかもしれないけれど、私にとってはそれくらい「はたらく」事は優先度が高い項目。

働くことって何だ?

企業に所属し、その企業に貢献し、対価としてお給料をもらうこと。またはフリーランスとして働く。そしてお給料の金額や見積金額と仕事内容・労働時間を比較して「あーでもない」「コーデもない」と意見を言って、金額をあげる努力を重ねる人もいる。
企業に所属した場合、自分が選んで所属した企業の人間関係や環境に対しても「あーでもない」「こーでもない」「わかってない」「全然だめ」と意見を分かった様な顔をして言う。そんな事言いながら、でもそれでも「働き続けよう」と思って毎日会社に行く。

私は障害を持った方の再就職・リワーク支援のお仕事を行っている。
そこで出会う方々は、病気に遭い障害を持ってしまったけれど「やっぱり働きたい」と再就職や復職を目指して日々努力を重ねている。
「もう一度働きたい」「病気になるまではこんな仕事をしていたんだ」誰もが、自分がやってきた仕事に対してとても誇らしげに、そしてとても大切そうに語る。

「生活のためには働かないと!」そうだと思う。生きるために、自分の心をそこそこ満たすためにはお金が必要。そんな事はわかっている。
生活のために働くのであれば、単純に給料のいい仕事を選べばいい。単価のいい業種を選択して行けばいい。だけど物事はそんなに単純じゃない。実際は「自分にはそんな能力はない」「給料はいいけれど仕事内容がいまいち」「仕事内容に興味はあるが給料がいまいち」そんな理由を日々重ねながら、私たちはずっと自分の中の理想の働くを追い求めている。
給料がよくて、仕事内容もよくて、人間関係もよくて何も問題なし!のお仕事が
あるの?長く経験を積んできた大人なら「そんなところはないと思うよ?」と即答かもしれない。そんな事、言われなくてもきっと全員分かっている。
それでも、私たちは何か理由をつけては今を否定して、理想の働くを目指して生きている。

理想の働くを手に入れたら、私たちは満足でハッピーな人生が待っているのかな?もしかしたら本当にハッピーな人生が待っているのかもしれない。そのハッピーは長続きしないかもしれないし。一瞬舞い降りる光だけかもしれない。もしかしたら今を頑張ればこの先ハッピーな働くが待っているのかもしれない。

働くことを「点」で見るのか「線」で見るのか。
その人それぞれの考えと意見があり「働く」と一言で言う場合の見える景色は変わってくる。そう考えると、働くって単純そうで、めちゃくちゃ複雑だ。

1人1人の人生観や生き方まで内包してくる。時にそれは言葉にならない想いだけだったりもする。働くためには、そう言った自分の人生観や生き方まで包み込んでいかなくちゃいけない。それは有機的で、線で見れば時とともに年齢とともに変化もしていく。環境に影響される事もある。
でも、それでも私たちは「はたらきたい」んだよ?

それはもうお腹の底から搾り出された本能的な思いのように感じられる。
そして、その叫びのような「はたらきたい」は、今の社会のシステムやルールの中で評価選別され無慈悲に蹴落とされてしまう事もある。

私はそんな今の社会の中で、「はたらきたい」気持ちをどれだけ形にして貢献できるのだろう?ちっぽけな私にも理想はある。「はたらきたい」と思っている人が全て、幸せに働いて充実した生活を送ることができていることが一番の理想。「働いてよかった!」「働くことって楽しい!」って笑顔でキラキラしながら語ってくれたらそれはもうめちゃくちゃ涙が出るくらい嬉しい。
その言葉を澱みなく、言葉に出してくれる人が1人でも増えるように日々の地道な努力を積み重ねていきたい。
人それぞれ、色々な生活を持って、出来ること出来ないことがある中で、それでも工夫を重ねて何とか働いて、その人の人生に彩りをもって欲しい。働くことにポジティブな印象を持って欲しい。ネガティブに支配されそうになったら早めに手を差し伸べて行きたい。そんな想いがある。

たまたま同じ組織に所属した人と出会って、同じ時間を生きて。その人たちと社会に貢献すべく「ああでもないこうでもない」と、ときには意見しあってぶつかって。時々文句も言って。自分1人の力じゃどうにもならないことに絶望して。達成感を分かち合って、ご飯を食べて寝て起きて。それでも私は「はたらく」。こう言う積み重ねが、働くことの醍醐味かもしれない。
働くことで起きる感情の変化の積み重ねで、生きてることの彩りを味わう。働くことで自分の中に様々な感情を持つ。働くことでたくさん感情の彩りを持てることで私たちは生きていることを実感するし、社会や人との繋がりを実感するのかもしれない。
そして自分の感情の彩りの多さを感じとり、「ああ。私生きているなぁ」と心から思うことなのかもしれない。感情の彩りは人にとって呼吸みたいなもので、エネルギーにつながっていくのかもしれない。
そう考えると、怒ることも、悲しむことも、全て大切なことだと感じることができる。

私が一番好きな言葉で、リチャードソールワーマンの
「仕事こそ、表現であり芸術であり、生活であり、技能である」と言う言葉がある。この言葉から、色々な人の働くを見ていると、「あぁ、働くことで生きることを表現しようとしている」なぁと感じてぐっとくることがある。日々、働く中でたくさんの問題や課題が起きたり、色々な人が色々な意見を言って、自分自身も感情のジェットコースターのような毎日だけれど、その感情の起伏が持てることで、生きていることを深く実感して、充実感を持っていて。
それでも私は働き続けるんだなぁ。お金とか売り上げとかとか言いながら、この人と人とが混ざり合う中で生まれるたくさんの感情の彩りの鮮やかさにクラクラしながら生きることの充実感を持っているんだ。

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