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物を選ぶ自分を選ぶ

SNSのミニマリストに憧れてはものを捨て、素敵な暮らしぶりのかけらをSNSで見かけるたびに衝動買いしてしまう毎日を過ごしている。

そういう買い物の気分の高揚のピークはご他聞にもれずネット通販でポチッとするときであって(いろんなサイトで値段とポイントをさんざん見比べてはいる)、自分では
「じゅうぶん吟味した!!」
と思っての購入であっても、不思議と
「お客様の大事なお荷物のため取り扱いには十分お気をつけください」
と書かれたご丁寧な段ボールを開ける時にはもう気持ちは萎みだしているのだった。
あまつさえ、その物を梱包から取り出して目にするよりも先に、幾重にもなる資材のごみにうんざりする瞬間が早い時もある。

自分なりの対策として、「イイね!」と思ってからポチッとするまでの冷却期間(1週間〜1ヶ月)を取ってみたりする。
もちろん、その間で我に返って「買わない」という選択肢を取ることもあるけれど、大体は「吟味」期間に商品ページを熟読しすぎて変な執着が発生していることのほうが大半だ。

そこで、さらに原始的な方法を試すことにした。
「できるだけ実物で、手に取れるものを見てから決める」
ということ。

もう、これではネットで買う意味すら疑ってしまう。
しかし(当たり前だが)、この方法は大いに役に立っている。

SNSではあんなにきらきらと誘うように輝いていた靴が、試着してみたら重い。
しかも本革では私のずぼらな手入れではメンテナンスが無理。
あのミニマリストさんが着るとすごくきりっと見えていたリトルブラックドレスが、面積の大きい私の体に纏われると鏡に魔女を映し出してしまう。しかも寝っ転がりたい時にしわになる、等々…

この歳になって薄々分かってきたことだけど、
どんなに素敵に映るものでも、それは私にとって快い・良い・物であることを意味しない。

使うたびに「ありがとう」と心で撫でているもの、
ずぼらでガサツな扱いに黙って堪えてくれているもの、
疲れで重くなったわたしの身体をやさしく受け止めてくれるもの、
気持ちと背筋を少しだけ持ち上げてくれるもの…

そんなふうに思い出せるものが、こんな私にもいくつもある。
それは100均で適当に買ったものだったり、誰かから譲り受けたものだったり、ネットで不意に買ったものだったりと来歴は様々で、使う頻度もまちまち。

だけどそのどれもが、知らずしらず私の生活に根付き、支えてくれている。
そういう物たちこそが
「いまの私の愛用品」
なのであって、SNSで素敵に写る物たちなら
「愛せる(または、愛せる私になれる)」
のかは私の暮らしとは本来全く、ほんとうに、何の関係もないはずなのに…


自分が愛するもの、心や身体が喜び、安心するものを身につけていたい。
居場所に縛られることなく、どこでも行きたいところに行けるフットワークと好奇心(とお金)を持ち続けたい。
肩の力が入らない、それでいて姿勢よくいたい。
よく眠り、よく食べ、好きな人たちとよく笑って生きたい。
心の贅沢を感じながら、機嫌よく毎日を過ごしていたい。

もう、こうなると私が自分のあり方に対してどんな行動をしていくか、であって、どんな物を買うか(または捨てるか)、というのはそれからの話になってくる。

さぁ、困った。
自分が選択してきた行動が、いかに無軌道で刹那的かということ、SNSの素敵ミニマリストさんの過去投稿やらライブをどんなに食い入るように見ても正解に辿り着けないという事実を思い知らされてしまった。

きっと、明日の私も変わらず「お気に入り」した商品たちを巡回し、買うかどうかを迷うことだろう。というか、迷うはず。

それでも少しずつ、実物を手に取る、肌につける、嗅ぐ…そんなふうに私の半径何メートルかで一緒に息づくことができるものなのか感じる経験を大事にしながら、この何だか疲れる部屋で心のため息をつく自分を抜け出したいと思うのだった。



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