見出し画像

【感想】劇場版「輪るピングドラム」後編【おかえりなさい】

 前編で興奮のまま綴った感想がこちら
 真面目な方の感想はこちら

 前編を見てから腑抜け状態で帰り着き、自宅の布団で号泣するという、「遅れてきた感動に打ちのめされる」映画体験を初めてしまして、その時に受けたものは先の二つで大体言語化できていると思います。
 後編はだから、ある意味で予定調和な流れで、落ち着いて最後まで見ることができました。言うても、やっぱりこちら側へ帰ってきたときにはダダ泣きしましたが。今もこれを書きつつ、目が潤みます。
 ありがとう、ピングドラム。
 おかえりなさい、冠葉と晶馬!
 ということで、もう何もいうことはないんですが、それだと記事にならないのでささやかながらな不満点を少し。

⚪︎真砂子周辺の大幅カット
 フグ要素全面カットは仕方ないにしても、マリオ関連のことは掘り下げられることもなく、むしろあまりにもさらりと流されてしまい、真砂子の正体も幼少期あたりの描写があって初めて二人が「兄と妹」であるとわかる、という。物足りなさはありました。
 上で「ラストでダダ泣きした」と書いてますが、初っ端のオープニングで幼い真砂子が小さなマリオと16歳になった真砂子に挟まれている描写で、実はひと泣きしています。
 「妹」という立場を、奇妙な巡り合わせで奪われたのが真砂子です。マリオのペンギン帽姿は劇場版でカットされてしまいましたが、あれから分かるようにわかりやすく陽毬と対になる存在でした。ただ「運命の日」の因果関係を考えてみると、眞悧によって図られてそうなった可能性も否定できず、真砂子はいいように操られていただけかもしれません。そして、プリクリ様ほどマリオには力はなさそうです。だから、ミスリードとしてアニメ版では存在して、劇場版では大幅カットされたのかも。夏芽家が好きなので、とても寂しい。
 何にせよ、彼女の視点だけで見てみれば、事件はこんな感じです。病気の弟のためにピングドラムを手に入れなければならない、生き別れた冠葉は偽の妹のために同様の目的を持っている、なぜ本物の家族ではなく偽物の家族のために動くのか? ──というところで、あまりにも切ない立ち位置にいる。
 ただ一連の事件を追ううちに、そもそも二人が離れたあの瞬間において、冠葉は自分たちを救ってくれたのだということを、彼女は理解する。幼い冠葉と晶馬があの箱の中に入れられたのがいつなのか特定できませんが、冠葉はあの組織で自分たち子どもが害されることをわかっていたのかもしれない。あの箱のシーンもかなり抽象的な表現なので、どこまで具体的に考えていいものか悩ましいところではありますが。
 そして、真砂子は冠葉を選んでしまう。彼を見捨てることはできず、結果、弟を見捨てることになる。劇場版では「囮になるとても美しい真砂子の図」で「ごめんなさい、マリオさん」の台詞がなかった気がするのですが、その辺の要素をそもそも薄めたせいでしょうか?
 アニメ版同様、真砂子は冠葉の愛があったことを知ることで救われます。これは転じて、冠葉が陽毬の愛があったことを知ることで救われることのに対比する。と考えると、もっと重要なキャラクタだと思えるのですが、そこはズラして描くのが今作なんだよなぁ。

⚪︎いろいろな形の愛
 「ウテナ」の時点で、そもそもイクニアニメには「男女の恋愛のみを「愛」として描くこと」に抵抗していたような気がします。今となっては「百合アニメ」と評されてますが、ウテナとアンシーのそれは友情的な描かれ方が強く、樹璃周辺でそこは補完されていたような気がする。BL要素もなくはないのですが、どちらかといえば、そちらはホモソーシャル的な面が強い。
 「ウテナ」はこんな感じに、同性愛的要素に近親相姦を絡めて「王子と姫」の物語の呪縛と、そこからの解放を描きました。
 「ピングドラム」はそこからむしろ離れず、家族愛を「呪い」としながらも引き受けることによって奇跡を起こす物語に昇華しました。「ウテナ」が解放の物語なら、「ピングドラム」は受容の物語です。
 その愛の形はさまざまで、兄妹の愛を代表に、家族の愛、親子の愛、友情の愛、そして男女の愛と広がりを見せる。これだけ入り組んだ人間関係が、「愛」という一つの言葉で表現できるのはなかなか便利なように思えますが、それを説得させられる描写がこの作品の強みですね!

⚪︎強いぞ、荻野目苹果
 「運命の受容」として、荻野目苹果の言葉がわかりやすいです。彼女は姉の死によってさまざまな困難を引き受けたと思い込み、どうにか運命を変えようと画策します。そのやり方は明後日の方に見えつつも、本人は至って真剣であり、だからこそ痛々しい。そんな彼女が晶馬への恋を自覚し、自分との運命を知ったとき、「悲しいことも苦しいことも無駄なことなど一つもない」として彼らを受け入れる。
 ゆりから「運命の乗り換え」の話を聞いても、「そんなことを考えたこともない」と口にしますが、ほんとそのへんの価値観が強い。強過ぎる。プリクリ空間で、一人奈落の底から這い上がり、帽子を奪って放り投げるだけのことはある。
 両親の行いに対して人一倍の罪悪感を持ち、陽毬を巻き込んでしまったことを悔いている晶馬が、そうした彼女の愛を受け入れるのは自明のことのような気がします。

⚪︎大切な人に伝えたかった言葉
 「愛してる」であることには間違いないのですが、前述したようにこの言葉には多義性があります。そして、今作に対するささやかな不満であり、しかしどうすることもできなかったと思われる部分がここです。
 晶馬は苹果にそれを伝えられた。けど、冠葉のそれは置き去りにされたままでした。もちろん彼の愛は、陽毬が受け入れること=生きることによって果たされているので、別に言葉で伝えなくてもよいのですが。
 前編の感想で『ユリ熊嵐』を受けて「冠葉もその恋を諦めなくていいのではないか」と予測したのですが、そういう次元の話にはならなかったですね。いや、仕方ないと思っているけども。
 ここからはもう単なるカプ論的な話になるので、冠陽の人は回れ右をしてほしいのですが、よくよく考えてみれば、「自分が寝入っているところにこっそり来て唇を奪う、血の繋がらない兄」ってなかなかにおぞましいでしょう? 下手すれば、というか、下手しなくても性的虐待案件だし、「ウテナ」における暁生とアンシーの関係さえ彷彿とさせる。もちろんそのあたりをわかっているから、「どうしようもない」として冠葉は苦しんでいたし、その苦しみは結局「陽毬のお兄ちゃんだ!」で解消されてしまった。あのシーン、やたら明るく希望的に描いてはいるが、私は「そこへ戻すのね」と正直に思いました。そして、そこへ「戻る」ために、彼らは子供の姿にならなければいけなかったのでは?とすら考えました。
 冠葉の「愛」は既に兄妹のものを超えており、彼自身、男女の恋愛は既に通ってきている。結局、今作は「王子さま」の話ではなく、「兄」の話なのですね。「兄」として愛を注いだ、その想いが報われる話。そういうことかぁ。

⚪︎というわけで。
 元の世界に戻ってきて前世の記憶がある小冠葉と小晶馬がわちゃわちゃする話が読みたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?