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クーピーでいえば白(翡翠色)

翡翠色(ひすいいろ)

「俵、直正、俵、直正でございます。沿道の皆様、こんにちは」
 グレーのワゴンには、顔写真と「俵なおまさ」の文字がデカデカと掲げられ、拡声器から良く通る女性の声が、歩行者たちの耳に届いた。
 統一地方選挙、投票日は次の日曜日、選挙活動の集大成に入っていた。
 白い手袋をつけ、ワゴンの窓からにこやかに手を振るのは、政治家、俵直正だ。実生活では喜美江の夫で、マキヨの元夫でもある。
「柔らかい印象で」
 そう言われて撮影した、選挙ポスターを眺める。
 身長もあり姿勢も良いと、周囲の人間からは若く見られている。白髪も増え、抗えない老化現象はあるものの、目鼻立ちの良い顔つきは、若い頃の面影を残していて精悍に見える。
 優しく笑う自分の顔は、誠実で輝いているが…。
 直正の心境は穏やかではない。
 選挙事務所へ妙な電話が来たこと、共和新党の本部へ苦情が入ったこと、そして、後援会が解散したからだ…。

「あなたね、私がどれだけ恥をかいたと思うの?」
 ある日、女性が事務所へ乗り込んできた。
 後援会長の妻…旦那の金払いが良いだけの女…。
 腹の中で思いながら、票を得るためには強くは出られない、営業用の笑顔で対応した。
「いやいや、奥様相変わらずお奇麗で…今日は何かございましたか?」
「まあ!聞いてないの?呆れちゃった。あんなことがあったのに、喜美江さん何も言わないのね?」
「…うちのが?何か失礼をしましたか、すみません。悪い奴ではないのですが、少々子供っぽいところがありましてね…」
「子供っぽい?はっ、いい年して。何も言えなかったわよ!共和新党は素晴らしいって庇ってやったのに、高校生にまで馬鹿にされたって、後援会をやめるって言いだした人がいるのよ。話聞いて驚いたわよ」
 言いながら、スマホの画面を検索し、それを直正に見せた。
《おばちゃん同士のイジメとかww》

 なんだ、これは…。

 タイトルの下には写真がある。まぎれもなく妻の喜美江だ。
 その周りには、何人か同年代の女性が…マキヨ…?喜美江の下に膝をついて座り込んでいる。
 景色はどうやら電車の中、喜美江は怒っているような顔で、マキヨを責めている?マキヨは泣いている…。
「いじめ?くだらない加工写真ですね。なんなんですか?こんなことで、私の成功を妨害しようとしてる奴がいるんです?」
 直正はスマホを返しながら笑った。
「これになんの意味があるんでしょうね。僕の邪魔をしたいならお門違いだ。知り合いの警察に訴えて、こんなものすぐにつぶしてもらいますよ。ああ、週刊誌の方が良いかな…」
「喜美江さんが悪いのよ。これだけじゃないの。若い人たちの中で変な広がり方をしてるの。本当に知らないの?」
 再度スマホを渡され見ると、スクリーンショットで残した画像だった。
 「政治家の妻だから席譲ってぇ」
 「ウチノタワラハヤリマス!コドモタチニユメトキボウヲ」
 「マンションは良いけど団地は仲間外れ~」
 「量販店の服着てると選挙いけないらしいよ」
 「俵直正62歳・共和新党・〇〇県出身、家族構成は…」
 「俵の学生時代もやばかった。タバコ・いじめ・親父が金持ち、留学先で女と遊びまくりww」
 「共和新党大丈夫か?」
 「議員って誰でもなれるの?」
 「議員の妻って偉いんですか?」
 「妻、ですけど何か?」…。
 それぞれのコメントには、喜美江自身の写真が加工され、アニメなどでごまかしてはあるが本人と分かるものが多く、同じように電車の中の写真、椅子に座り大口を開けて笑っているもの、誰かを指差し罵っているようなもの、学生時代の写真まで晒されている。
 なんなんだ、これは。
「こんな…」
 直正は腹の底から黒い液体があがってくるようだ。直正自身の情報の多くは偽物だった。だが、実家の写真や、学生時代のアルバム写真、どこから手に入れたのか、友人とにこやかに笑う、ゴルフ中の写真などの掲載もあった。何とかという、アプリケーションによる投稿が主らしい。多くは高校生や大学生の仕業だ。
「くだらない…選挙権のないガキの遊びにつきあってられないだろうが!県警にでも言って早く捕まえさせろ!」
 直正は、声を荒げた。
「大体、あんた何故、こんなものを見せる!何しに来たんだ!」
「主人に言う前に、事実を確認しようと思ってきたのよ。どういうことなの?喜美江さんに聞きなさい!」
「俺は知らない!どっかの馬鹿が勝手に言ってることだろう。こんなもん、いくらでももみ消してやりますよ。どこのどいつだ。知るか、ほうっておけばいい。」
「喜美江さんたちのことを見ていた人がいたから、ほんとにあったことで嘘じゃないでしょう?それが、ここまで広がってるのよ、どうするつもり?」
「だから…いちいち、振り回されては困る!良い大人が、後援会が、そんなくだらないガキの噂に一喜一憂してるようじゃ、共和新党の名がすたりますよ…」
 と、直正は、唇の端をあげて笑いながら、女性を睨みつけた。
「こんなことで、あなたひどい目に合うわよ?何もかも失うかもしれないのよ?」
「だから、こんなこといくらでも消せるでしょう?マスコミに訴えて、このガキ全員さらしてやりますよ。目には目を、ね。大体…選挙権もないガキどもなんかに何ができる。逆に年寄り相手の新聞かテレビ関係者に公表しろ。話題になって好都合だ。涙でも流せば、ジジイ、ババアが哀れみで一票を入れてくれるでしょうよ。」
「…わかりました。主人にそう伝えます。」
「ええ、そうしてください。統一が始まります。こんなデマにやられる俺ではありません。くだらない子供を作らせないよう、情操教育に力をいれるよう宣言します、とね」
「…残念だわ。」
「あ?」
「あなたは…まともだと思っていたのだけどね」
 そう言い残し、女性は事務所を出て行った。
 なんなんだ!
 直正は、そばにあったゴミ箱を蹴飛ばした。イライラしながらも、スマホを取り出し事務所の人間へ電話した。あんなに騒ぎになってるなら、誰か気づいているはずだ…。
「え?…ちょっと待ってくださいね…。わ、ほんとだ…、え?やば…」
 若い秘書が、電話口で薄く笑った…。
 最近はパソコンを操作できないと選挙活動もできない。そう政党からの指示で、秘書や事務員の年齢層に変化がある。
「先生、奥様と大至急アポを。事実確認をさせていただきたいのですが」
「…家にいるだろ。電話して呼べ。…ああ、良い。俺も行くから家へ向かえ」
「…わかりました。お子様も御在宅でしょうか?」
「知らん。なぜだ。」
「いえ…ご一緒にお話を聞かれた方が良いのではないかと…」
「…あいつらに関係ないだろうが」
「…わかりました。早速向かいます。」
 直正は、事務所で作業をしていた秘書を連れて車へ乗り込むと、ふと、思いついて言った
「なあ、動画サイトでよ、俺の名前検索したことあるか?」
「はい。共和のサイトや先生のホームページ、ブログなども開設してますので。ちょっと不穏なものは削除の手続きをしなければなりませんが、裏アカとか膨大すぎて…先生は見ないのですか?」
 最近入った、私設秘書の若い男だ。自分の息子と大して年齢は変わらないだろう…。
「自分をか?パソコンは触らんし、スマホは面倒だ。ちまちましていられない。政治活動は、顔を突き合わせてやるもんだ。足で稼いで、人を集めるのが政治家だ。ブログだのなんだのだって、どうせ作家が書いてるんだよ。上っ面だけ、嘘ばっかりだ。見る意味などない。」
「…他の動画も見ませんか?動物とか、海外のいたずら動画とか…」
「お前、そんなものを見てるのか?動物見て、政治の何が学べるんだよ。」
「いや…癒されるというか」
「癒し?そんなものに癒されてんのか?もっとあるだろう?若いんだし、いろいろできるだろうよ…。ああ、そういう動画を見てんのか」
「はは…まあ、そういうのは、ねぇ。しょうがないというか…」
「だろ?そうだな、男だもんな。馬鹿が、仕事しろ」
「すみません…」
「冗談だ。そんなんで処理してんなら可愛いもんだ。」
 直正は、くくっと低く笑う。
「ただよ、実際の女関係には気をつけろよ。俺もひどい目に会ったからなぁ…。」
「あ…えっと…」
「…甘いな。うまいこと返せるようになれ。それがあったからこそ、喜美江夫人との強い絆が生まれたのですよね、とか、先生のお人柄の良さには誰でも狂わされてしまいますよ、とかいろいろ言えるだろ?」
「…ああ、なるほど」
「何が、なるほどだ。政治家なんてのはそこが重要なんだよ。女関係が無いわけないだろ。どう切り取るかだ。言葉を選んで相手の心を掴め…」
 言いながら直正は、頭の中に、じんわりと黒いシミが広がるような気分になった。先ほどの婦人に対しての自分の態度は、今の話と真逆だっただろう。
 相手が中年の女だったから、つい…。
 後で、後援会長へ電話を入れなければ…。きっとわかってくれるだろう、男の世界というのは、お互いにうまいこと助け合わないとやっていけないものだ。これまでもそうやって、歴史は繰り返されてきたのだよ。相手にも黒いところはあるんだ、少し色でも付けりゃあ、なあなあで済ませてくれるだろう…。全くいちいち、きれいごとを並べられても困る。女が入るといつもそうだ。特におばちゃん連中が。
 クリーンで、品行方正、未来のことを考えて?政治の何もわかっちゃいねぇくせによ。そんなもんで、この世の中回せるわけがないだろ。
 多少の影が人間味を生み出すんだ。男の世界はそうでもしないと動かない。通り一遍じゃ、国を動かすことなんてできないのだよ、わかるかな?おばちゃん。
 週刊誌とワイドショーの言うことを間に受けて、自分じゃ何も考えてない女が出しゃばるからややこしくなる。お前らに、何ができるってんだ…。

 しかし…。

 喜美江…。
 軽い遊びだった…。妻の友人で、地元建設会社の娘、兄が政党関係者。便利だ…そう思った。
 政治家と言う職業を全うするため、一度、自分を捨てた。喜美江の見た目と身体も悪くない。それほど、頭も回らないはずだった。
 誘えばいつでも受け入れるし、従順で相性も良い。ストレスのはけ口には都合の良い女だった。
 ただ、それだけだ。
 だが、結局都合よく使われているのは自分だった。
 子供が出来てしまった…。
 スキャンダルで騒がれそうになったのを、喜美江の一族が運命的な話に仕立て上げ、直正に泣き落としで世間に訴えろと言った。
 裏で、マスコミ、後援会、政党、地元の有権者…どれだけの人間に金を渡したのか…。
 マキヨとその家族にも、考えられないほどの金銭を送り続けた。その後、喜美江の兄弟に、半ば脅される形で良い家族像を演じ続けた。
 直正は、仕事のためプライドを捨て、人間を捨て、もはや、心まで捨てた。仕事が生き甲斐…違う、もう、それしか自分の生きている場所がないのだ。妻など、子供など、家庭だの癒しだの…そんなものはどうでも良い。
「政治家・俵なおまさ」が、どれほどすごいのかを世間に知らしめればそれで良い。
 もはや、それしかなかった。
 だからこそ、この仕事を全うしなければならないのだ。くだらない噂話などで崩されてたまるか。子供が使うツールなんぞ、一時的に騒がれるだけだ。放っておけば、また違う話題にすぐ切り替わる。他の物で吊り上げるか…。
 ああ、あの話を少し流しておくかな…。中高生のガキどもが食いつきそうだ。
 直正は、大手出版社と広告代理店、テレビ局などの関係者に連絡するよう秘書に伝えた。

 自宅に着くと、喜美江も子供たちも、その上、喜美江の兄まで揃っていて、直正は眉間にしわを寄せる。
「なぜ、義兄(あに)にまで連絡した」
 小声で、ベテラン秘書ににらみを利かせる。秘書は腰を45度に曲げ
「息子さんから連絡が入ったようで…」と、声を震わせた。
 息子が…?
「ごめんなさい。こんなことになるなんて、思ってなかった」
 床に座り込み、顔を手で覆いながら言ったのは喜美江だ。直正は横目でチラッと見ただけだ。顔を覆う手にはしわが寄り、爪は赤く光る。
 が、直正には、それよりも指につけられた、大きな石の指輪が目についた。

 どうして今更、あんなものを…。
 喜美江の指についている指輪は、翡翠の指輪…。

「マジで何してくれてんだよ!俺、めちゃくちゃ恥ずかしかった!」
 指輪に神経を集中しようとした直正は、息子の言葉で我に返る。
 恭介(きょうすけ)は22歳、有名大学に通う学生だ。
 年齢的に就職活動中のはずだが、本人は、父親のコネを利用する予定でいるため、今のところ動いていない。それどころか、単位までも危ういらしい、と、先日秘書が伝えてきたところだ。
 細身の長身、髪を染め、耳にはピアス…。
 小説で容姿を伝えるなら、今どきの若者…そんな形容詞をつけるだろうな。
 直正は息子の様子を、どこか他人事のように見ている。
「ほんとにこんなことあったのかよ!」
 恭介が喜美江に詰め寄る。
「嘘だったら、こいつら全員訴えるから、説明しろ」
「違う、こんなはずじゃなかったの」
 喜美江が言う、泣いているはずだったのに、その顔に涙はない。その様子も、直正は妙に冷静に見つめている。
 くだらない…早く話を終わらせよう。
「落ち着け。そんなものはいくらでも消せる。騒ぐな。あと1ヶ月もすりゃ、違う話題で盛り上がるだろうよ。放っておけ」
 直正が言った。その低く響く声は、妙な説得力に包まれる。
 一瞬、全員が息を呑んだ。
「パパさぁ、ネット見てないでしょ?」
 そう、言ったのは娘の玲奈(れいな)26歳だ。ネイルの飾りを眺めながら、スマホを触る。
「うちの会社でも話題になってたみたい。さすがに私には誰も突っ込まなかったけどね。」
 タレント事務所に入ってモデルとして活動しているため、自撮りやメイク動画などをSNSで発信し、それなりにフォロワーを多く持つようだ。だが、さほどメディアには浸透せず、親の七光り、金持ち自慢ばかり、などの誹謗中傷がつきない。
「おかしいと思ったんだよね。変な投稿増えてさぁ。議員の娘だからなんだとか、お前もやってるのかとかさ!しかもさ、学校のアルバム写真から、
もう家まで全部出ちゃって…いくら消しても残ってんの。ねぇ、どうすんの?アカウント削除するしかないじゃん!」
「俺の選挙が終われば消えるだろ。結局、俺を貶めたい奴がやってんだ。お前らには関係ないよ。なんとかするから、変に反応するな」
「選挙で受かれば良いと思ってんの?は?受かると思うの?」
 恭介が声を荒げる。
「それで、馬鹿にされた俺は?俺の気持ちは?みんなに笑われた。お前の母ちゃんやべえなって!電車で見てた友達がいたんだよ!」
「…じゃあ、そいつがまき散らしんだろ?そいつの電話番号教えろ、俺が電話する」
「そいつが俺じゃないって!何もしてないって!他にも同じ大学のヤツいたぜって、そこだけ口止めしたって無駄。大学の奴らだけじゃねぇよ、ヤマトの親も一緒だったろ?」
 と、恭介は同級生の名前を出した。喜美江の取り巻きの一人は、小学生からの”ママ友”だ。
「あいつの母親やべぇだろ。近所中に噂まき散らして、関係ない奴らが拡散してるって、ヤマトが言ってきたんだよ!」
「ええ?せっちゃんが?まあ、ホントにおしゃべりで困るわねぇ」
 喜美江が、しれっとした様子で嘯いた。
 なんだ、こいつ…。
 恭介は、怒りで頭に血が昇っている。が、どこか当の母親が他人事のような態度をしているようで違和感がある。事の重大さがわかっていないのだろうか。どうせ、もみ消せば終わると、高を括っているのだろうか…。
 怒りと、何か得体のしれない怖さで、息がしづらくなった。
「それだけじゃないよ、パパとママの昔のことも出てんの。…ねぇ、大恋愛の末の結婚だったんだよね?私、周りに話してきたんだけど。」
 玲奈が、スマホを見せた。
 《俵直正の過去》
 一度結婚→新婦の友人喜美江と出会い不倫→建設会社の親、政治関係の兄→政治のためだけに利用→妻を捨てて喜美江夫人と結婚 大恋愛の騒動はごまかしか?写真で罵られている人物は、なんと元妻のAさん!喜美江は寝取った上に、未だに自分の舎弟としてそばに置き、いじめているのか?
 どうして…今更こんなことを…。
 直正の顔から血の気が引いた。
「結婚したけど、その人よりもママが好きでどうしようもなくて、運命だったんでしょ?その人も理解してくれてお祝いしてくれて、私ができたんでしょ?今もママと親友で、その人も幸せで…なんで、この人をいじめてんのよぉ…」
 玲奈の泣き声が部屋に響いた。
「そんなことより、なんで、こんなことしたんだよ!しかも電車の中で!馬鹿じゃねぇの?お前自分の立場わかってんのかよ。政治家の妻だぞ?なぁ、何かすれば叩かれんのわかるだろ?大人しくしてりゃあいいのによ」
 恭介は半狂乱だ。
 意外と、しっかりした考えをしているんだなぁ…。
 直正は、どこか遠くの出来事を見ているかの様に眺めていた。泣きじゃくる娘…怒る息子…項垂れる妻…

 そして…
「どこから洩れたのかなぁ…。」
 腕を組み、ソファにふんぞり返るように座っていた義兄が言った。森田雄三。喜美江のすぐ上の兄だ。あと二人、長男の森田浩一郎は政党職員で、次男卓二(たくじ)は父親の建設会社を継いでいる。
 雄三は、介護施設の経営者をしているがそれは表向きで、実際のところ名を貸しているだけ、本人は経営の何もしていないようだ。自分は何にもなれなかった。と、本人がぼやいている。
 それほど背丈は高くないし腹は出て、髪も少なくなった老年の男だが、上質な生地の服を纏い、時計などの装飾品は高級ブランド、浅黒い顔は、年齢にそぐわない艶があり、若さとステイタスは感じさせる。だが、どうしても、直正は心を開けない相手だ。
 なんとなく…彼との間に、見えない壁を作ってしまうのだ。
 意識してではないだろう…。多分、無意識のうちに。
 そう、元はと言えば…こいつの存在が厄介だったのだから。
「…昔のことはね、変えようがないんだよ、玲奈。良く考えてみろ、言ってることは同じだ。結婚した後、本当の運命の人に出会ってしまったんだ。
愛し合ってお前が出来た。でも、今でも仲良く、お母さんとお友達は一緒にいるんだ。イヤだったら一緒に遊んだりしないだろ、違うか?親友なんだよ、喧嘩だってするだろ?その記事は、意地悪な書き方をしているだけ。そう考えたら良いんだ。器の小さい奴の嫉妬だよ。いじめてなんかしてない」
「だ、からさ、そこじゃないって!お前、ちゃんと説明しろ!なんでこんなことした!」
 恭介が喜美江へ強い口調で罵った。喜美江は、はっと顔を上げ、一瞬、直正を見た。
 助けて…そう聞こえてくるような気がしたが、直正は目を逸らした。
「俺は何も聞いてない。何か言いたいことがあるなら、きちんと話せ」
 喜美江は、目を見開いた。顔は強張り、体が小刻みに震えた。
「…だって…偉いじゃない」
 全員が喜美江に注目する。
 隣接する和室では、秘書が二人正座して見守っている。若い方は、全員の顔色を窺って、何もできずキョロキョロしている。
 こんなことで…?たかが、電車の中での些細な出来事が?
 若い秘書は密かに思っている。
 国を動かす仕事だぜ?しかも、妻という立場の人間が、夫の仕事を自慢してただけ。何が問題なんだ?そんなもんするだろう。政治家の妻、なんだからさ。俺だって、秘書であること自慢してるぜ?ダメなの?
 政治家で、金もある、名声もある、女の問題なんて当たり前、甲斐性みたいなもの。しかも、大昔のことを今更騒ぎ立てるとか?普通に生きてりゃ、そんなの山ほどあるだろう。一般人の方がもっとすげえよ。自分は普通、って思ってる奴らが一番危ないからね。そういうヤツらが嫉妬して、政治家で金も名声もある先生を下げたいだけだろ…。まったく、くだらない。
 金が欲しい、偉くなりたい、じゃあ、政治の世界へ入れば良いじゃないか。こっち側へ来ればいいだろ。ああ、無理か…。お前らじゃ無理だよね。
 俺は、そのために猛勉強して、有名大学に入って、いろんなものを我慢して、やっとこの世界に入ったんだ。お前らとは違うんだよ。バァカ!
 ああ、言ってやりたい。何もしてこなかった平民に言ってやりたい。スマホのツールは覚えるくせに、社会というものを学ばない、人の悪口を言ったことで偉くなった気でいる、国の何の役にも立たない奴らによ!
 でも、本当に偉くなるって言うのも大変だよな。こんな問題がこの先どんどん出てくるわけだ。よし、俺が先生を守ろう。
 この馬鹿たちを全部見つけ出してやる…。
「えらいって何だよ。」
 恭介が言った。
「誰が偉いんだよ。お前か?」
「違う…わよ。パパよ。でも、それを言っただけじゃない。共和がちゃんと教育しますって、うちのパパがやりますって言っただけ。なにがダメなの?」
「違うだろ?自分は偉いから、席譲れって言ったんだろ?」
「それはぁ若い子が座ってるから!年上の私たちに席譲れって言ったの。常識でしょ?何を学んできたのかしら。自分がどけば6人で座れるかもなぁって、気を利かせろって言ってんの。馬鹿なのかしら。お金もなさそうな子だった。持ってるカバンとか、来てる服とか、みっともない…ああ、可哀そう。育った家庭が悪いから、ね」
 言いながら、カップを口へ運ぶ。グリーンの帯に美しい金の装飾のついたそれは、直正との結婚祝いでもらったものだ。
「違うだろ?7人だったって…一人を仲間外れにしたんだろ!」
 喜美江の動きが止まった。
「変な婆さんに怒られてたって、マンションは良くてとか…電車の中で馬鹿笑いしてたって。みっともねぇ!俺は恥ずかしくてしょうがねぇ」
「…だってあんな、うふふ、やぁだ、大丈夫よぉ。結局何もできないんだから。学生たちが騒いだって今だけ。その内消えるわよ。偉くて強い政治家のパパがいる…」
 ブブゥッ!
 喜美江の口から紅茶が噴き出した。紅茶を含んだ瞬間、恭介に後頭部を叩かれたからだ。目が飛び出るほど目を丸くして、その拍子に手に持っていたカップが、ティン、というきれいな音色を発して、床へ落ちて割れた。
「キャッ!」
 玲奈が小さく叫ぶと同時に、ベテラン秘書が立ち上がって処置へ向かう。
 喜美江は、四つ這いになりゴホゴホとむせた。恭介が喜美江に噛みつく。
「いい加減にしてくれ。まだ、わかんねぇのか!お前の、その考え方が違うって言ってんだ。政治家だから、金があるからなんだ!お前じゃないだろ!親父の仕事だ。お前はただの主婦だ!何様のつもりだ」
 ぐ、っと息を呑み、喜美江は目をキョロキョロさせ、何度が頷いた。
「恭介、きょうちゃん…。親に向かってお前なんて言っちゃダメ。めっ、よ。だって、私が家庭を支えてるから、パパは仕事ができるのよ。私がすごいじゃないの」
 喜美江は、母親の顔をして恭介に向き合った…。つもりだ。
 目は強張り、顎から紅茶が滴っている。唇の端を上げ、本人は優しい笑顔を作っているつもりだろう…が…。
 その姿は、得も言われぬ恐怖を感じる。
「ねぇ?パパのお仕事がすごいんだから、そんな言葉を使っちゃダメなのよ?あなたも将来…もうすぐ政治家になるんだから、気をつけないと。男の子はそれが怖いわねぇ…。喧嘩とかして誰かを殴ったらダメよ。命取りだわ。今も、ママを叩いたでしょう?ダメよ、めっ!」
 恭介は震えが止まらなかった。目の前にいる、これは何だろう…。
 それは、直正も同じだった。これほどまでとは…。
 同じように動けなかった。
「…キミ、もういいよ。顔洗って来い」
 声を出したのは、義兄、雄三だ。
「悪いね、そこの君、彼女を任せて良いかな」
 と、若い秘書に喜美江を預け、部屋を出させた。
「…なんだよ、話が終わらねぇだろ!」
 恭介は叫び、頭を抱えてのけぞった。やばい…。
「キョウ、お前も部屋へ行って休め。俺がなんとかする…。」
「直正よぉ…」
 低く、だが良く通る声で、義兄が直正を呼んだ。
「雄さん、今日はもう帰ってくれ、あとは俺が…」
「なおまさよぉっ!」
 義兄は、直正の言葉を遮って声を荒げた。その場の全員が、動きを止める。カップの処理をしていた秘書も、思わず手の動きを止めて注目した。
「お前、なんで喜美江を抱きしめないの?」
 義兄は、唇に怒りとも、悲しみともとれる歪みを浮かべて言った。
 え…。
 と、秘書は小さく言ってしまった。
「可哀そうによぉ、ガキに頭ひっぱたかれて…泣いてただろうが!なんでお前はあいつを守らねぇんだよ。なんで寄り添わないんだよぉ…」
 言いながら自分も泣き出した雄三を見て、直正は鳥肌が止まらなかった。
 はっ、として子供たちを見ると、同じように立ち尽くし、能面のように白く、無表情な顔をしている。
 きっと、絶望を感じているだろう。
「お前よぉ、あいつがどれだけ苦労してきたと思うの?子供のころから…。うっ…。忙しいお前に迷惑かけないように、必死で二人育ててよ。遊びたかったって、もっとお金が欲しいって、愛してくれないって、何度も俺に言ってきたよ。そのたびに、俺が守ってきたんだ!」

 いや、
 待て…。

 直正の頭の中で、警報が鳴りだした。
 恭介…玲奈…、直正は二人の元へ行く。これ以上は一緒にいちゃダメだ…。
「ほんとは、あいつのそばには俺がいる予定だった…。俺とキミが…一緒にいるはずだった…。なのに、お前じゃダメだって…あの馬鹿兄貴が…」
「森田様、落ち着いてください。」
 ベテラン秘書が叫んだ。
「先生と別室を設けますので、それ以上は…」
 あわてた様子で、玲奈と恭介の手を引き、外へ連れ出そうとする。
「恭介、玲奈を連れて出ろ、後でちゃんと話し合おう…な」
 直正も二人外へ出そうとする。だが、二人は何故か動こうとしない。
 どうして…
「知ってるよ!全部、知ってる!」
 叫んだのは、恭介だ。
「もう、ガキじゃねぇ!だから、こいつ呼んだんだろうが!」
 と、雄三を指差した。
「おいおい、こいつとか言っちゃダメだろう?ママに怒られたろ?な、良い子でいなきゃダメだぞ。だって、俺は…」
「雄さん!もう良いだろう、頼む、出て行ってくれ」
 直正が懇願する。腕の中には玲奈がいた。声も出さず泣きながら、自身の腕の中で震えている。顔は青ざめ、部屋のどこかを見ているが、焦点は定まっていない。
 ああ、玲奈、俺が悪い…。恭介…どうしてこんなことになったのか…。
 直正は涙が止まらない。どこで狂ってしまったのか…。

 なんだ?これ…。
 若い秘書が喜美江の部屋から戻ってきて驚いた。部屋の空気が異常だからだ。全員が泣いて、良い大人が、髪を振り乱し騒いでいる。
 とりわけ、一番関係のない森田はやばい。泣きながら、でも、どこか嘲笑っている顔をし、目は強張り、唇は歪む…。
「玲奈、恭介、だましててごめんな。」
 と、雄三はうやうやしく、頭を下げた。
「墓場まで持って行こうと思ってたんだけどな、もう、我慢できない。お前らが可哀そうでさぁ。俺が悪かった。どんなことになっても、キミ…ママとお前らを守れば良かったんだ…」
 どこかで演劇でも見ているのだろうか?若い秘書は状況がつかめない。雄三の言動が、どこかうそぶいて聞こえて不快だ。
 こんなこと思っちゃいけないのだろうけど…。何故か、受け入れられない自分がいる。この人は、何か…違うな…。
 その違和感が何なのかわからないまま、秘書は先輩秘書へ近づいた。
「どうなっているのです?」
 他に聞こえないほどの声で聞いた。
「何を聞いても、何が起こっても、声を出すな」
 ベテラン秘書が、鬼気迫る顔で言ったので、また驚いた。
 もう、充分声に出したいけど?
「もう、大丈夫だよ。俺がいるからな。寂しくないぞ…、俺が守るよ…」
 雄三の演技はまだ続いている。他の人間は、震えたままだ。何故か、自分の身体にも鳥肌が立ってきて。秘書は首をひねる。
 なんだろう…?
 風邪でも引くのかな、マジかよ、この大事な時期にそれは…
「お前らの本当の父親は、俺だ。」
「や…っば!」
 雄三の一言で全身に鳥肌が立ち、若い秘書は、意図せずに声を発してしまった。

 玲奈と恭介を、森田の本家へ連れて行った。彼らを預けられるのはそこしかなかったからだ。
 二人を雄三から守るには、そこしか。
 喜美江は自室に籠っている。どんな感情でいるのか、直正には想像もつかない。声をかけようとしてやめた。何を言えば良いのかわからなかったからだ。
 逆に、雄三は部屋に入っていった。多少、言い争う声がした気がしたが、もはや、関わりたくもない。
 秘書たちは帰した。若い奴も心配だ。まだ、そこまで説明はしていなかったから衝撃を受けたはずだ。あとは、ベテランの秘書から話を聞くだろう。
 結論から言えば、喜美江と雄三は義兄弟だ。血のつながりはないから、男女の関係になったとしても問題はない。
 ただ戸籍上は兄弟だから、認めてもらえなかった。
 特に、父親と長男の浩一郎だ。
 世間体、政治関係者への配慮…それだけだ。

********************************

 喜美江は一人親だった。母親が近所のスーパーや弁当屋などを掛け持ちして働いていたがそれでは足りず、体を売って稼いでいた。
 ある程度、喜美江のいない時間や、別の場所でそれは行われていたが、ある時、大学生ほどの若い男が、喜美江のいる家へやってきた。
 母親が外出しなければいけないため、喜美江の相手をしてくれと言われたのだという。 
 母親は、何も心配していなかった。
 まさか、小学生の子供に手を出すなんてことはしないだろうと…。
 部屋に戻ると、大学生は喜美江に馬乗りになっていた。しかも…自分の時より、顔を高揚させて…。
 母親は、喜美江を平手打ちした。
「ちっ、なんだよ。もう少しだったのによぉ…。」大学生は言った。
「キミちゃんごめんね。誰にも言わない方が良いよ。母ちゃん怒るから」
 そう言い残して、母親と二人で出て行った…。

                      「こげ茶色」に続く

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