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「信じらんない」が苦手

まだ6月上旬にもかかわらず、
一日中マスクをしているせいか、
朝から汗だく。
ストレスもあるかもしれない。
いろんな意味で息苦しい。
夏になったらどうなってしまうのか。

「信じらんない」という言葉。
あの言葉に私はいつも傷つく。
他人が言われているのを聞くのも辛い。

「○○はこうであるはず」
という、その人にとっての常識
それに取り込まれない事をすれば、
「信じらんない」となる。
感情のはけ口としての言葉。
信じる世界が揺れる不安を、
ただ解消したいだけなのかもしれない。
かもしれないけれど、
言われた側は、何だか切り捨てられた気がするものだ。
他人を信じられないのは、
私だって同じだ。
だけど、それをすべて他人のせいにする発想は自分にはない。
他人を信じられないことの原因は、
少なからずこの私にもあるのだと思う。

しかし、同時に思う。
なぜ彼ら彼女らは、「信じらんない」と、
言わなければ、やってらんないのかと。
自分の信じる世界が崩れそうになるのが、
どうしてそれ程まで怖いのか。
自分の世界がまわりと違う事に恐れおののかねばならないのかと。

そうすると見えてくる。
「信じらんない」のは、
こちらの世界ではなく、
本当は「信じらんない」と言った本人の世界なんじゃないだろうかと。
彼ら、彼女らは、切り捨てられないために、誰かを切り捨てなければ安心できない。
こっちの世界から外れる事を怖がるあまり、誰かを切り捨てて自分が内側にいることを確かめないと息ができないのではないか

私は昔から、他とは少しズレてしまう星の下に生まれ、そんな日常を生きてきた。
自分の親すら「あんたは変わってるねえ」と呆れるような私であった。
他人の価値観に合わせようともがいたこともあったが、そうすると自分が擦り減る痛みに耐えられなかった。

マイノリティは、ある程度周りの世界に合わせないと生きていけない。ただ合わせながらも、自分であることを否定しないようにしなければ、結局は生きている意味がない。

信じらんないのは当たり前だ。
自分を守るのは自分自身。
それをすべて他人に求めるのは、
やはり違う気がする。
相手が変わることを要求するのではなく、
お互いに変化できれば、
そんな気持ちの余裕をお互い持てるような関係があったなら、
どれほどか生きやすいだろうに。

「信じらんない」は、
分かってもらえない事を他人のせいにする言葉かもしれない。気持ちは分かるけど。

今朝もマスクをして、
玄関のドアを開け、
そんなイライラした街に出る。



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