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人生で初めて何かを理解した瞬間について

人と人とが向かい合って手のひらを合わせたとき、自分の左手が触れている相手の手はどちらの手だろうか。

もちろん答えは右手なのだが、これを理解した瞬間を覚えている人はどれほどいるのだろう。あたりまえだと思って流してしまっているのだろうか。

僕は明確にその瞬間を覚えている。

「パパ」「ママ」が言えるようになり、身の回りのいろいろなものの名前を覚え始める時期。机、椅子、パソコン、ピアノ、布団。そんな流れの中で「左手」と「右手」があった。

僕は左手に大きなほくろのようなものがある。今ではかなり薄れてしまってはっきりとは分からないが、子供の小さい手にはずいぶん黒々としていた。

マークがあるほうが左手。ないほうが右手。こっちが左手。こっちが右手。

頑張って覚えている僕に母が言った。「手を合わせてみよう」

向かい合って手のひらを合わせる。もちろん僕の手は母の手よりかなり小さいけれど、それでも「形が同じ」ことは分かった。指が五本あって、横に向いているやつ(もちろん親指のことだが、そのときは名前を知らなかった)の場所が一緒だ。

「こっちは?」手を合わせたまま、僕の左手のほうを上げる。「左手」
「こっちは?」右手のほうを上げる。「右手!」

母はにっこり笑って僕の左手のほうをもう一度上げ、「じゃあ私のこっちは?」「左手!!」

自信満々に答えた。母が隣に並ぶ。
さっき左手だったはずの手が、右手になった。あれ?

もう一度向き合って手のひらを合わせる。やっぱり左手だ。
でも横に並んだら右手になる。なぜだろう?

そして、気づいた。

僕が見ている世界と、母が見ている世界が違うということを。
僕の左手とくっついているのは間違いなく母の右手で、母の左手とくっついているのは同じように僕の右手だということを。
僕の視界には僕がいない代わりに母がいて、母の視界には母がいなくて僕がいるということを。

あれが、僕が初めて他人の視点に立つということを知った瞬間で、同時に僕が初めて何かを理解した瞬間だったのだろう。

この瞬間を越える深く大きな理解に、僕はまだ出会えていない。

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