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始まりの木

2023年は飛び歩き落ち着かない一年を終えて、
1月は今年のテキスト作りと
3月に開催する暦のワークの資料作りのため
1ヶ月ほど静かな時を過ごしてきた。
それもあと4日間ほどで終了する。

テキスト作りも何年もやってきて
ほぼまとまり切ってきた観もあり、
あと少しの段階に来てからは、読書三昧。
ここ数年にないくらいのペースで本を読み続けて
やっぱり「本」って本当に面白いと思った。

今日も夏川草介さんの「始まりの木」を読了して、
なんとも言えない気持ちになっている。
珍しく、意味のわからない涙が溢れたり、
読み進める目を閉じて、しばらく、肉体全体で感じてみたり、
不思議な本だった。
最終章の灯火に出てくる住職に会いたい。
会って話を直接聞いてみたい。笑

この物語の主人公は民俗学者である。
なぜ、民俗学を専攻するのか、
その問いかけに対する「答え」ではない「思い」が展開されていく。
そんな中で出会う人々や、見えない世界の存在たちの語り口が
絶妙に心を打つ。

前述の住職の言葉である。

この国の神様の独特なあり方は信じるかどうかではない。
信じるかどうかは問題ではなく、神を感じるということである。
大きな岩を見たらありがたいと思って手をあわせる。
立派な木をみたら胸打たれて頭を下げる。
海に沈む夕日を見て感動する。
これがこの国の神様との付き合い方である。

始まりの木 夏川草介


お寺の脇にある樹齢600年の桜の木が
道路拡張工事で伐採される方向にあるという本文の流れの中では、

神を感じることができなければ、
あの立派な桜を切ろうなんて乱暴な料簡も当たり前のように飛び出してくる。

始まりの木 夏川草介

神を感じる木の存在は、感性の問題だから、
その感性のない人には決して伝わらないのだ。
見えないものは、感性によるしかない。
これを感じ取れない人にとっては
道路を作るのに邪魔な桜の木にしか捉えられないのである。
ここに、日本的な
いや、人間として潜在的に存在している最も大切なものが
削除されていっていることを飄々と語っていく。

住職はそのうち全てが「亡びるね」と静かに淡々と話す。
文明が地球の上でどんどん拡大し、ものは細分化され、
情報は積まれていって何が正しくて何が正しくないのかわからない時代。
価値観がある意味進化し、一線を超えていくような時代に、
最終的には「民俗学の出番だと思わんかね」で物語は締めくくられている。

思いがけず「言葉にならない想い」の生じた本。
カタカムナという日本古代に残されていたという文献を紐解いて
その内容を伝える、ということを業として生きてきた私だが、
それも何か形が変わろうとしているように思える。
多分、それはツールでしかなくて、
本質的に目指したいのは、電子が、とか、声の音が、とか
そんな理屈じゃないような気がしてきた。

魂が、神・上・カミとしたモノにせまる、
もっと民族と共に存在し、潜態した世界の中に存在する何か
それを知ることであり、
それを感じることであり、
その感覚で持ってこの世界を見、
そして、言葉では伝わらない世界を
身をもって伝えていくことではないかと思い始めている。





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